前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

昨日出発出来なかった航空券の払い戻しのため、航空会社に電話をした。
多くの便が欠航となったため、なかなか電話が繋がらず、今日になってようやく繋がった。

電話が繋がらないことにイライラモードになりかけたが、対応したオペレーターの天然ぶりに、思わずププッと吹いてしまった。

オペレーター:「往きの便はキャンセルですね、帰りの便はどうなされますか?」

私:「おいおい、行けてないのに、帰れるわけないでしょ~」

オペレーター:「そうでございますよねぇ~。申し訳ございません~(汗)」

何だかねぇ~~、笑うしかないでしょ、こうなると。

天候による欠航だから仕方ないことでも、予定していた便に乗れなかった客たちにしてみれば、怒り心頭だろうから、きっと心ない言葉を吐く人達も多くて、それに対応するオペレーターの方々もイヤな思いをするわけで、そりゃ、上記のような壊れた?会話になるわけだ。

個人的には残念な出来事ではあったけど、たまにはこういう状況に身を置いてみると、違った光景が見えてくる。
そして、天然キャラ炸裂のオペレーターさんにもエールを送りたくなった

今日から沖縄に行く予定だったが、昨日関東に降った大雪の影響で、搭乗する予定の便が欠航になり、行けなくなった。

それ自体は残念だし、前々から計画を立てていたので、そのために仕事を前倒ししたり、前日まで忙しく諸々の対応に追われ、今日は今日で旅行内容のキャンセル処理などもせねばならず、まさに踏んだり蹴ったりな状況だ。

東京は40年以上ぶりの大雪であり、見方を変えれば?まさに千歳一隅な日に出発予定だったとは、ある意味スゴすぎる!そこまでして、今回の旅行を止めさせたい、何かの見えない力が働いたのか?と思ってしまう。

自分の思い通りにならなかったことをグジグジ後悔したり、恨み節を唸っていても仕方ない。
NHK大河ドラマ『八重の桜』のセリフにあった「ならぬものはならぬのです!」の精神だ。

ならば、次回は今回よりもっと楽しい旅行にしよう!
気持ちの切り替えと、見えない力に感謝したいと思う(と、自分に言い聞かせている)

「縁」を大事にすることは、「自分」を大事にすることと同意だと思う。
一生のうちで、この地球上で出会える人や物なんて、ほんの限られた数でしかない。

それが人間であろうと、動物であろうと、物であろうと、食べ物であろうと…だ。
「縁」あって、自分の手元にある、側にいる、それらを大切に出来なければ、幸せな形でいられなければ、自分も心穏やかでいられるわけがないのだ。

「好き好んでこんな縁を持ったのじゃない」と感じることもあるかもしれないが、知らず知らず、それも自分で選択しているのだ。
「縁を持ったのが運の尽き」であろうと、その縁を生かし切らないと、次の良い縁は巡ってこないと思う

ジッ…と飼い主を見上げる散歩中の犬と、向かう方向しか見ていない飼い主を、私は後ろから見ていた。
犬は、飼い主に何かを訴えたいようで、歩きながらもずっと頭をもたげているのに、飼い主はそれに気づかないでいる。

犬や猫といったペットの存在もまた、「縁」あってのことだと思う。
お金で買ったり、知人からもらい受けたとしても、その子(ペット)とは浅からぬ何かがあるのだ。

言葉や感情があるのは人間だけではない。
ペットもまた、人間と同じように何かを話したいし、理解して欲しいと思っているのだ。
そんな気持ちを汲んであげられるよう、ペットとの縁も大事にしなければ…と思わされた

「縁」を繋ぐのは割と容易かもしれないが、切るのは難しいと感じる。
もともと薄い縁であれば、切るのも簡単だが、濃い縁はそう簡単には断ち切れない。

ムリに切れば、その反動で、結果的に自ら痛い思いをすることになる。
あえて切らざるを得ない縁であれば、切るためには時間をかけ、双方が納得出来る結果にもっていくのが賢明だろう。

そうは言っても、一時だって一緒にいたくない、顔も見たくない、といった縁もあるだろう。
そういう縁であればあるほど、実は己の鍛錬のためにその人との縁をもらっている、ということがある。
それを「やっぱりい~らない!」と言って放っておくと、また同じ、いや倍増し以上の試練を与えられることになってしまう。

切りたいと思う縁ほど切れない(逃げられない)ものであり、逃げれば追っかけてくるものだということを、肝に銘じたほうがよいかもしれない

「ネエネ(私のこと)が産んでくれないから、私、お母さんのところに生まれたの」
しゃべり始めたばかりの姪が、2歳の時私にそう言った。

一瞬、何を言われたのか分からなかったが、2歳の子がそんなことを言うなんて普通ではない。
いわゆるこれは、生まれる前の記憶、というやつか!?

ということは、姪は私の子供(魂の上で)であったらしい。
だが、なかなか結婚せずにいる私を見切って、姉のところに来たというのだ。

姉一家はこの姪を除き、皆同じ血液型だが、姪は私と同じ型だ。
彼女は現在、成人目前だが、教えたわけでもないのに、趣味、嗜好が私とそっくりだ。
2人で出かけると、もれなく親子だと思われ、「いいですねぇ~、娘さんと一緒ですか?」と声をかけられる。

姪が最近、「やっぱり私はネエネの子供だと思うんだ」と、再度の告白。
「2歳の時にもそう言われたよ」、と話すと、「憶えてない…」と姪。

不思議なことではあるが、これが真実(魂の上では親子)ならば、縁というやつのスゴサ!を思い知らされる

縁の中でも一番濃いものは「家族」だろう。
生まれる前に、自ら「この家の子になる」と決めて生まれてくる、という説が本当ならば、切っても切れないのが「家族の縁」ということになる。

家族であっても、皆が常に仲良し、何のトラブルもなくハッピー!という家は稀ではないだろうか。
家族の中に、一人や二人、トラブルメーカーがいるのでは?
家族であるが故、その対応に苦慮し、切ることの出来ない縁に頭を悩ます。

婚姻関係にあれば、離婚という手もあるが、次に出会う人もまた似たような人を自ら選んでしまうのが縁の怖さだ。
困った親であった場合、親を施設に預けてせいせいしたとしても、自分が親と同じ年になった頃、次は自分が施設に送り込まれることになる(因果応報)。

濃い縁であればあるほど、その対応を間違うと、すべてが自分に降りかかってくることになる。
どんなに理不尽でも、どんなに辛くても、濃い縁を粗末にしてはならないと思う

新たに出会う人の中に、「あ、この人知ってる!」と感じる人がいる。
初めて会うのに、感覚的に前から知ってる感じで、違和感なく話が出来るし、少し時間が経つと、もれなく仲良くなっているのだ。
年齢を経て、人を見る感覚が身についたせいだけとは思えない、まさに本能の成せるわざのような気がする。

それは、前世からの知り合いのように思う。
前世から付き合っていた仲だからこそ、違和感なく、しかも相手の感性まで手に取るように分かってしまうのだ。

今世でも縁あって同じ時代に生きているのだ。
周りにいる親しい人たちが前世からの繋がりだとするならば、今世でも一緒にいることで、何かを成すお題目があるのだろう。
縁ある人との仲を、さらに深めていけたら、と願う

「袖振り合うも多生の縁」との諺があるが、私は街でちょいちょい人に声をかけられる。
買い物中に知らないおばさんに声をかけられたり、道を歩けば人に道を尋ねられたり、偶然知人とバッタリ!なんてこともある。

私はどちらかと言うと一人でボ~ッとしていたいほうなのだが、声をかけられれば無視するわけにもいかず、大概は声をかけてくれた方とほんの少しの時間、世間話をすることになる。
たいしたことを話しているわけではないが、別れる時には、相手の方に「ありがとう」と言われてしまい、こちらが恐縮してしまう。

相手も意図して私に声をかけてくれているわけではないだろうが、これもきっと何かの縁なのだろう。
先人の教え(諺)は大事にしたほうがいいのかもしれない

美容院に行ったら、4月以降料金の一部が変更になる旨の張り紙があった。
消費税が4月から8%になることをリアルに感じた。

暖かい春の4月を思うと、まだ先のように感じるが、今年もすでに1月が終わってしまった。
そう思うと、4月もあっという間に来てしまうのだろう。

消費税アップの前に、駆け込み需要が多くなることを見越し、昨年からすでに保存の効くものや、高価なものを買っている人達は多くいる。いざ消費税が上がった時に、「しまった!もっと早くに買えば(準備すれば)よかった!」と思わないように、ということだろう。

消費税に限らず、前もって分かっている事柄には、何事も早め早めの準備が肝要だろう。
そうすれば、本番がやってきても慌てふためくことはない

人と対面する時、顔を見ると、相手の気分や雰囲気が何となく分かる。
顔には、その人の性格や気質、生き様が現れていると思う。

人気のある人というのは、愛嬌が良い。人に媚びるのではない、心からの笑顔が満面している。
表情から、話しやすそうだな…とか、一緒にいて楽しいだろうな…とか、見ただけでそう感じてしまう。

人から避けられる人は、険しく苦虫を噛んだような顔で、いつも何かに怒っているように見えるし、話しかけたらイヤな言葉を返されそう…と想像してしまう。

口(言葉)には出さないのに、その人となりを感じる。
「顔は口ほどに物を言う」=「心は顔に出る」ということだろう

※諺では「目は口ほどに物を言う」ですが、今日のタイトルにちなみ、上記表現としています。

ちょっとしたことで心がイラついた時、ほどなくして忘れられればいいのだが、時々、その怒りが治まらず、グチグチと怒りの原因を思い返してウツウツしてしまう。

そんな感情を持ったままでいると、なぜだか追い打ちをかけるように、次のイラッとがやってくる。
ここでも気持ちを切り替えることが出来ないと、次々とイライラの連鎖が続く。

最終的に、それに対して人や物に当たってしまい、揚句、心身が痛い思いをする(自業自得)。
その痛みを通して、自分のアホさを痛感する。

人生、修行の連続だ

楽しく、充実した瞬間を味わうために、多くの困難と努力を積み重ねる。
だが、最終的に結果が良いものになることが分かっていれば、苦労のしがいもあるというもの。
今の自分にはそれがチャレンジであり、仲間とそれを共にしていれば、絆もより強くなる。

そして、いよいよ至福の時到来!と思いきや、そんな時間はあっという間に過ぎていく。
良い結果を持つことが出来、苦労を共にした仲間と美酒に酔いしれる。
こんなひと時を味わいたいから、また次にチャレンジしてしまうのかもしれない。

次のチャレンジが始まって気付くことは、前回のメンバーが常に一緒とは限らない…ということだ。
時の流れと共に、メンバーは否が応でも変わっていく。それぞれに家庭があり、都合がある。頭では分かっていても、仲間が離れていくことはやはり辛い。

人生とはそんなものだと思う。常に同じ瞬間は巡ってこない。一瞬一瞬が、二度とない今なのだ。
今一緒にいる人と一生を共に出来るわけではない。
そう思うと、今あるべき状態、今側にいる人を大事に思える。

私たちは、どんなふうに流れていくか分からない波の中に生きている。
どう流れが変わってもうろたえない覚悟を常に持っていたい

先日、20代の頃に習っていた和太鼓の仲間の一人と再会した。
何年ぶりだろう? 記憶を辿って紐解くと、目の前にいる彼と当時の彼の顔がマッチした。

「エンジさん、変わりませんねぇ~」としみじみ言われてしまい、私も会わなかった年月の分だけ大人になった彼を目の前にして、「お互い、若い頃を知ってるから、変わらないように見えるんだよ」と笑った。

もう、彼とは会うこともないだろう、と思っていたが、思わぬ再会となった。
縁のある人とは、長い時を経てもまた会えるようになっているのかもしれない。

彼に限らず、もう二度と会うこともないと思っていた人に会えるのは、これまで生き、培ってきたことから再び巡ってきたことだと思う。再会することが、今の私に必要なことなのだろう。必要とあらば、今後どんな展開が待っているのか?楽しみだ!

縁とは、何ともフシギなものだ

10回に亘り、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」にまつわる事柄を書いてきた。
これは、かつての私が「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」であったこと、そして今は逆の立場となり、過去の自分と対峙せねばならない現実と向き合っていることから、自分が通ってきた道であり、それを克服できた経緯を記そうと思ったことに始まる。

私には、私のおかしいところを、「おかしい」と教えてくれる友人がいた。
それまで、親の価値観の中だけで生きていた私は、知らず知らず「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」になっていた。他人から面と向かって「変だ!」と言われたおかげで、私は自分を変えるきっかけをもらえた。

一朝一夕に「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」を克服出来たわけではないが、日々巡ってくる事柄と向き合い、周りの助けのおかげで、無事に「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」を脱却できたようだ。
その時の私は、気持ちが丸裸だった。素っ裸の心のままでも、恥ずかしくない自分になっていた。

ここに書いている全てが、誰もに当てはまるわけではないが、何かのヒントになればと思う

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