前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

2015年03月

心の声5のつづき

私達は、現世に前世で成し遂げられなかった課題をクリアーするために生まれてきている、というのが真実ならば、その課題をクリアーするために、前世からのメッセージを受け取っているのではないだろうか?
その手段の一つが心の声なのだと思う。

自分を取り巻く様々な働きかけから聞こえる声もあれば、前世の己の魂が呼びかけていることもあるのでは?と思わされる。
例えば、初めて見る場所や物や人だったりするのに、なぜか「知っている」という感覚に襲われたことはないだろうか?
初めてやることなのに、たいして教わらなくてもスラスラ出来てしまうことなどもそうだ。

これは、恐らく前世の記憶なのだ。
「昔(もと)取った杵柄」は、生まれ変わっても魂が憶えているとしか思えない。
それと同じように、前世の自分から現世の自分に発せられているメッセージがあるのだと思う

今年3度目の桜は、シダレザクラだ(2回目は河津桜)。

六義園の枝垂れ桜を見に行った。
まあ、何とも見事だこと!ここは以前数回行っているが、いつ行っても息を飲むほど感動させられる。

手入れしてくださる方の尽力あってこそだろうが、枝振り、幹のたくましさ、地面に這われた根の強さ。
そして、それらを土台として、桜が満面に開花しているのだ。

年に一度のこととはいえ、これだけ見事な花を咲かせるなんて!
感動以外の何物でもない。

人生においても、いつか満開の花をつけられるよう、精進していきたい

20150330六義園

世界フィギュア選手権、テレビで観戦した。
男子も女子も新たな王者が誕生したが、それぞれの想像を絶する努力の結集がそこにある。

数分間の演技のために、どれほどの稽古を積み、精神を鍛えてきたのだろう。
フィギュア人口の頂点に立つ人たちは、並々ならぬ努力を重ねているのだ。
だからこそ、本番にその力を爆発させることが出来る。

ジュニアからコツコツ上がってきた日本女子の進化も目を見張るものがある。
今回銀メダルに輝いた選手、まだまだ伸びしろがある。努力を重ねていけば、もっともっとうまくなるな、と感じた。
何より、身体の使い方が出来ているからだ。

選曲や振付の妙によって優勝した選手は、今期が頂点だろうな、と感じた。
身体の使い方が小手先だからだ。

身体の使い方一つとっても、基礎からきちんと鍛錬をした者にはいつか追い越される。
時間はかかっても、基礎を土台とし培った技は、誰にも負けない

心の声4のつづき

心の声は、実は誰にでもあるものだと思う。
誰にだって第6感があるように、そこを糸口として心の声を聞けるのではないか、と。

そうなれるには、自分と対峙すること、どこどこまでも自分の奥深くを見つめ、自戒したり、見えない働きに気付けるようになることが大切だ。

神仏に詣でたり、尊敬出来る人の話を聞いたり、建設的な意見交換をすること等も、自分を磨く方法のひとつだろう。
今ある現状に満足し、己を高めていく努力をしなければ、恐らく心の声は聞こえない気がする。

頼るものは己しかないのが目に見える現実だが、実は目に見えない多くの働きを頼りとし、己の心を磨いていくこと、それが大きなポイントだと思う

心の声3のつづき

心の声は、第6感なのか…と思う時がある。

情報番組などで、データ連動でゲームに参加出来るものがある。
4色のボタンのどれかを押すと、そのゲームに答えるという形になるので4択なのだが、毎日見ていると何となく次に出る当りが分かるようになる。
それは、毎日番組を見ているからこそ分かることだ。

だが、その理屈とは違う声がたまに聞こえるのだ。「違うよ、今日は〇色だよ」といった具合に。
そんなバカな~と思って自分が当初思っていたボタンを押すと、心の声の勝利、というわけだ。

ちょっとした運試しみたいなものだから、深刻に考える必要はないが、心の声はやっぱり正確なのかな~などと、負ける度に思わされている


心の声2のつづき

人付き合いの中で、「心の声」が聞こえていないのだろうか?と思うことがあり、知人に聞いてみた。
すると、事も無げに「そんなのないよ」と言われた。

私にしてみれば「?」しか浮かばないのだが、大方の人がそうである現実を知らされ、それからはそういうことはあまり口にしないようにしている。
なぜならば、私が感じたことで相手を不快にさせるからだ。

時には「それでも良いから分かったら教えてほしい」という人もいる。
だが、やはりなかなか口には出来ないな、ということがある。
それは、良くない結末が分かる時だ。

もしかすると、その人の努力や周囲の影響で良い方向に向かう時だってあるのだから、いくら心の声が聞こえたからと言って、おいそれと話すわけにはいかない。
むしろ、それが聞こえたとしても、プラスに転じていけるよう、私に出来ることで力になれたら…と願っている

「心の声1」のつづき

心の声を聞いたら、大概はその通りにするのだが、そうもいかない時がある。
それは、他の人が絡む時だ。
自分一人だけの事柄なら、如何ようにも対応するのだが、いかんせんそう出来ない時が辛い。

心の奥底では「やめておいたほうがよい」とのささやきがあれども、あえて逆らわざるを得ないのだ。
すると、やっぱり「やめておけば良かった」ということになってしまう。
だからと言ってそれで相手を責めるわけにもいかず、物事のままならぬ日常にほぞを噛む…といった具合だ。

もちろん、心の声が反対するのに決行せざるを得ない時は、見えない存在に祈る。
私を守ってくれている守護霊であったり、神仏であったりに加護を求めるのだ。
それがあるからこそ、たいしたことのない後悔で終わることもある。

心の声そのものが、実は自分を守る見えない者たちからのメッセージなのかもしれない

日常の中のちょっとした事柄でも、自分の内なる声が聞こえる時はないだろうか。
いつもと同じ道を通って帰宅しようとすると、「今日はこの道がいいんじゃない」とか、「今日はお買い得品があるから、このお店に寄ったら?」などと言った感じだ。

何かを成すことは自分の意思であるのだが、時にその思いとは裏腹な声が聞こえてくることがある。
もう何十年も前からそれは聞こえているので、今ではその声に従順な私だ。

若い頃はその声を無視していたが、必ずと言っていいほどしっぺ返し?がある。
それでも、自分の思いじゃないと思う時には逆らってみる。
すると、またしても先々で手痛い目に遭うのだ。

なぜこのようなことが起きるのか、自分でも分からないが、それは誰しもが持っているものだと思っていたが、友人らに聞くとそうでもないらしい…ということが分かった

最近、年月の経過の速さに驚いている。
ちょっと前のことだと思っていたことが、実はもう10年も経っていたとか、久しぶりに会った友達とは数年ぶり、なんてこともしょっちゅうだ。

以前は年に数回は会っていた人とも、気付けば数年に1回頻度になっているのに、まったくその年月を感じない。
それだけ、毎日が、毎年が速い…ということなのだろう。

だが毎日が速いということは、それだけ充実した時間を過ごしている、ということでもある。
世の中には、暇を持て余し、退屈だという人もいるのだから。

忙しいことが良いこととは思わないが、やるべきことがあり、それに精進出来ることは、やはり幸せなことなのだ。
振り返れば、幸せだった歳月の足跡が残っているよう、日々努力し続けたいものだ

人との付き合いのうえで、親しくなるまでの段階がある。
それなしに、一気に仲良くなることは稀だろう。

特に、何かの団体の中に入った時は、その輪に馴染むまでには、何がしかの関門があるものだ。
団体の人達も故意にいじめているわけではないが、新参者に対して、知らず知らず査定を下しているのだ。
この人は、本当に私達の仲間としてやっていけるのか、少々のイヤな事柄も笑顔でやり過ごせるのか…と。

それは、たぶんどの世界にもあることだ。
知らない世界に入って、「いじめられた」だの「仲間はずれにされた」だのと言う前に、自分から礼節を尽くし、心を開いているだろうか。

どんな世界も、自分から折れていくこと、それが関門を早くクリアー出来る秘訣だ。
試されることは本意ではないが、それがあるからこそ、より一層絆を深めることが出来るのだ

子供に接する時、子供の眼をじっと見て笑顔で話しかけると、子供は笑顔で答えてくれる。
こちらが笑顔でないと、子供は不安を感じ、心を開いてくれない。

大人が笑顔で接することで、子供も笑顔で人と対することを覚える。
そして、大人から大事にされているということを心で感じることで、子供は安心感と共に、その思いを人に向けることが出来るのだ。

子供は、母親の胎内で生を受けた瞬間から、たくさんの愛を欲しがる。
親や周囲の大人達から、どれだけ愛されたかで、その子の将来は決まる。

甘やかすことと愛することは別物だ。
その子のことを心から思い、かわいがったり、叱ったり、なだめたり、励ましたりすること。
それらのたくさんの思いを受けて、子供は大人へと成長していく。

人の心は、幼い時から受けた愛の量によって決まるのだ

私がモットーとしていることは、大概のことは人に譲り、周りがご機嫌良く過ごしてくれればそれで良い、というものだ。
普段の生活で、あまりこだわりがないせいか、と言ってももちろん譲れない部分はあるが、それ以外のことは正直言ってどうでも良いのだ。

こだわらなくても良い事柄については、周りに任せる、好きなようにしてもらうほうがラクだし、お互い気持ちよく過ごせるからだ。

一から十まで自分の思う通りにしないと気の済まない人もいるが、それだと思い通りにいかずイライラし通しになりそうだ。ならば、いっそのこと周囲が笑顔でいられる道を選ぶほうが良いのではないだろうか。

それは、無責任な放任ではなく、自分の意思はきちんと持ったうえで、こだわらなくても良い部分については、周りを立てる、自分は一歩引いた場所で見ている、ということだ。

誰しも出来ることならご機嫌良く過ごしたいよね

他人のほうが良い思いをしていたり、自分が欲しかったものを手にしている姿などを見ると、知らず知らず嫉妬心が湧いてくることがある。

人間なのだから、人を羨んだり、妬んだりする感情があるのは当然のことだ。
だが、その感情をエスカレートさせ、相手を憎み出すとどんどん自分が辛くなっていく。

今ある自分の状況が不甲斐ない時、つい周囲のせいにしたくなる。その方が自分の心がラクだからだ。
だが、恨まれた人にしてみれば逆恨みも良いところだ。

その人は、他人が思うよりも、ずっと見えない苦労をして、今の地位を手に入れているかもしれない。
人の良い面だけを見て妬むのは、早計というものだ。

一見、人に負けたように見えたり思えたりすることでも、それも自分の生き方なのだと思い、出来ることから努力を積み重ね、それによって得た物のほうがずっと有意義だし、心も晴れやかだ。

人に遅れを取っている、なんてことは長い人生を俯瞰して見たら些細なことだ。
自分の心に正直に、努力を重ね精進することで得られるものこそが、本物なのだから

良い事も、悪い事も、なぜか一度にやってくるのが物事の法則なのか?と、いつも思わされる。
悪い事柄が続くと、ついつい用心深くなるし、良い事柄が続くとついハメを外しそうになる。

すると、なぜか物事は逆転し出す。
腰低く用心していると、徐々に道は開け、自分にとって好機が巡ってくる。
好調な時は、知らず知らず自我が強くなり、気付けば周囲が離れていってしまう、なんてこともある。

いずれにしても、良い時もそうでない時も、平常心を保つことが大切なのだ。
どんなに嬉しい事があっても、心の中でガッツポーズをするだけに留め、後は淡々と日々の事柄と真摯に向き合う。
そうしていれば、掴んだ好機も逃げることなく手中に収まる、というものだ。

良くても悪くても、人としての礼節をわきまえた営みこそが、何よりも大事なことなのだろう

久しぶりに、老舗割烹屋のランチをいただいた。
ここの歴史は古く、夜は黒塗りの車が来るような店だ。
だが、ランチならば庶民にもお手頃価格で食すことが出来る。

私が初めてこの店に行ったのは、もう20年ほど前のことだ。
そのおいしさに惚れ込み、タイミングが合えば、時々その店のランチを食べていた。

今回は3年ぶりだった。
久しぶりの味に期待満々で臨んだが…うん?何か違う???
私の舌が肥えたのか?店の味が変わったのか…。
何だかちょっと残念な感じが…。
そういえば、今日は並ばずに入店出来たな…。

最近は、お手頃な店でも料理のクオリティが上がっている。
老舗といえども、胡坐をかいていては、他店に追い越されてしまう…ということだろうか

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