前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

2015年09月

都民には、9月から「防災ブック」が各戸に1つ配布されている。
知人の所には9月早々に配布されていたが、我が家にはなかなか届かなかった。
区のホームページを見ると、「9月30日までに届かない場合は連絡ください」との文言が。
と…今日帰宅したら届いていた。

B6版約330ページもある冊子、在住区内地図には避難所の記載もある。
本の内容は、地震だけではなくあらゆる自然災害に対処する方法や、備蓄品などのリスト、家族の連絡先等々、あったらきっと役に立つであろうリストや情報が満載だ。

まだじっくり読んでいないが、これはなかなか役に立つ代物だ。
お役所仕事にしては珍しく良い仕事をしている!?

災害はいつやってくるか分からない。
食品の備蓄や、ライフラインの断絶に備えることも大事だ。
どれだけそれで助かるかは分からないが、皆が準備しておけばそれだけ多くの人達が助かるのだ。
明日は我が身!己の身は自分で守る!!くらいの気概でいたいものだ。

ちなみに、先の震災で被災地で聞いたのは、一番大事なのは「水」と「トイレットペーパー」だそうだ。
この2つの備蓄は、国民の義務くらいの勢いで準備したいものだ

「マツコ×マツコ」の最終回で、「一人で暮らしている人は、誰かと一緒にいると気を遣ってしまい疲れてしまうから、同じ空間には住めないんだ。誰かと住むのを平気と思える人は、相手に気を遣っていないからでは?」という主旨のコメントがあった。

な~~~るほど!私も一人者だが、確かに一人でいることが好きだし、他人と一つ屋根の下に住むことはたぶん出来ない。血の繋がりのある家族でさえ、ずっと一緒にいることに苦痛を感じるし、1日に何十分でも一人になれる時間がないと気が狂いそうだ。

一緒に住もうと思うくらいだから、嫌いではないのだが、一緒にいると見たくないアラまで目についてしまうし、一度気になりだすと、どんどん気になって、終いには「どっかに行って欲しい」と思ってしまう自分がイヤなのだ。
ならば、最初から一人でいればそんな毒を吐くこともないだろう。

誰かと暮らすには、片目をつぶって見るくらいの鈍感力がないと持続は難しいのかもしれない。
だが、皆が皆いろんなことに気付き過ぎて、他人と暮らせなくなったら、間違いなく人類は先細りになってしまう、とも言える

スーパーに買い物に行くと、いつも疑問に思うことがある。

「とうもろこし」だが、なぜだかみなさん外皮を剥いて、中身の詰まり具合をチェックするのだ。
なぜ、外見だけで判断出来ないのだろう?
私は、見た目と実際にとうもろこしを手の平で軽く握ってみて、その加減が分かる。

もちろん、外皮は付けたまま買う。
だが、ほとんどの人がゴミになるのがイヤなようで、外皮をバリバリ剥いて買い物カゴに入れていく。

あのね~~~、外皮剥くと、その時点でとうもろこしの甘味はどんどん抜けていくんだよぉ~~~~!と、いつも心の中で叫んでいる。おいしいとうもろこしを食べたいのなら、外皮は家で調理するまで剥いてはいけないのだ。

果物で言えば、「桃」や「バナナ」、「マンゴー」など、柔らかい果肉をなぜか指で強く押す人がいる。
見た目で食べ頃かどうかの判断がつかないんだ…と、いつも愕然とする。

これも、人間の野生の感が鈍くなっているからなのだろうか

「親苦、子楽、孫乞食」ということわざがある。
よく一代で成功させた同族企業にありがちな話だが、どの家にもあり得る話のように思う。

艱難辛苦を嘗め尽くして成功への道を切り拓く親がいる。ただただがむしゃらにそれまでの環境から脱するために、身を粉にし、必死で働いてきた。

その甲斐あって成功した親は、苦労しただけで歳を取って死んでしまい、築いた財産を子供が使い果たし、大した成果もなさないまま子供は死に、何も残されていない、ヘタするとマイナスの状況から孫は苦労を強いられる、ということって案外身近に聞く話ではある。

と、ここで提案!自分で築いた財産は、子供には絶対渡さない、自分で使い果たせるのであれば使い果たせばいいし、寄付をするとか、困った方々に援助をする、という手もある。

親が死んで、子供同士で財産争いするほど財産を築くから、醜い争いが勃発するのだ。
というか、そんなことで争うような子供に育てた親に、一番の責任はあると思うが…。

目に見える財産はほどほどに。
貯まり過ぎたら、寄付をする。それが子供をバカにしない、孫を乞食にしない道のように思う

次の次元2のつづき。

いつもは平日の会社帰りに本屋に行くのだが、久しぶりに休日の本屋に足を向けた。
すると、レジは長打の列なうえに、店内はかなり混雑していた。

新鮮な驚きだった。
パソコンやスマホが普及し、欲しい情報はすぐ手に入る時代になり、大きな本屋が潰れないことにフシギだな~と思ってはいたが、休日の本屋の混雑ぶりを見ると、以前より本屋は盛況なのではないか?と思えたほどだ。

本屋で本を買うということは、わざわざ店舗まで足を運び、欲しい本を探し、レジに並び、お金を払い、また帰路に着く、という何ともアナログ行動のオンパレードだ。

スマホでパパッと欲しい情報を取り出し、インターネット決済で買い物をし、商品は宅配便で届けてもらう便利さを使いこなしているであろう現代人達。
便利でありがたいと思う反面、人類の歴史上、身を粉にしない時代がなかった人間のDNAは、自ずとアナログな行動に走ってしまうのだろう。

どんなに文明が進化しても、歩んできた人類の記憶は、脈々と続く遺伝子に組み込まれ続ける。
次の次元になっても、こればかりは外せないのかもしれない

次の次元1のつづき。

終戦後まで、日本は一家の子供が10人近くいるのがフツウだった。
だが、食糧難や病気の治療が十分でないため、産まれても幼いうちに亡くなる子供がたくさんいた。
例えば兄弟姉妹が10人いたとして、長寿で人生を全う出来たのは1~2割いるかいないかだろう。

そう思うと、もしすべての人が長生きしていたら、今の日本はどうなっていただろうか?
人口は今の約10倍になるし、高齢者も圧倒的に多くなっていただろう。

だが皮肉なことに、物質や食べ物に困らない生活が送れるようになると、今度は出生率がガクン!と下がる。
今や出生率は2014年で1.42だ。
どうだろう?子供が毎年のように生まれ、兄弟姉妹が10人だった時にくらべたら、おおよそ10分の1だ。

豊かな文明になると子供は丈夫に育ち、必然的に長生きするから、産むことを止めるように、人間の身体はプログラミングされているのか、と思うほどだ。

そして、私たちが次に向かうべき次元での出生率はどうなるのだろう?
もしかすると、自由に産む権利がなくなるかもしれない…などと思うのは早計だろうか?

何十年も生きていると、徐々に好き嫌いが淘汰され、嫌いなモノはあまり食べないし、苦手な事柄には手を出さなくなる。

それも、年齢と共に変化していくが、若い頃からずっと好きで、長年同じ物を量にもよるが食べ続けていると、中には悪影響を及ぼすものがある。

長年ワインを飲み続けていた女優が取り返しのつかない病気になり、先日もガリガリに痩せやつれきった姿で公の場に現れたが、何ともイタイタしい。当人としては「これでも元気になった」のだろうが、どう見ても「かわいそうに」という思いが湧いてしまうような姿だった。

当人は「この病気になったのはワインのせいではない」とは言っているが、化学物質タップリ入ったものを毎日摂取し続ければ、身体に影響が出るのは当たり前だろう。その結果、取り返しのつかない病気になったとしても、それも自分で選んだ事柄だ。

端から見れば「かわいそう」だが、当の本人の心はいかばかりか?
彼女が若い頃、「お笑いマンガ道場」に出て上手な絵を描きながら、利発な発言をしていた頃が懐かしい。
あの頃の彼女から、今の姿は想像もつかない

最近の子供のおもちゃたるや、本物志向のものが多い。
人形ひとつにしても作りは良いし、それに付随するモノもとても良く出来ている。

ゲームにしても、ストーリーや構成、画面の美しさたるや、昭和のなんちゃってアニメに見とれていた世代には驚くべきことばかりだ。

子供の数も少ないうえに、高齢者は長生きするから子供達は身内からたくさんのおもちゃをもらうことになる。
家中おもちゃが散乱する、なんてこともあるだろう。それらを見ていると、何とも贅沢なことだな~とも思わされる。

身内の5歳児が我が家に来た時に、100円均一ショップで買ったおもちゃを出して一緒に遊んだ。
単純なおもちゃなのだが、意外にも?これが5歳児に大ウケで、シンプルなおもちゃに夢中になっており、終いには、「このおもちゃちょうだい!」と言うので、「じゃ、5歳児が持ってるおもちゃを私にちょうだい!」と言ってみた。

いつもなら、自分のものは絶対人にはあげない子が、「いいよ!」と二つ返事でおもちゃをくれると言う。
どう見ても、5歳児が所有するおもちゃのほうが高価なのだが、滅多に見ない?シンプルなおもちゃに心を奪われたらしい。

子供の想像力を掻き立てるのは、案外こういうシンプルなおもちゃかもしれない、と思った。
作りの良いお膳立てされたおもちゃも悪くはないが、自分の頭で考えて、どうやったら楽しく遊べるか?そんなことを想像しながら遊ぶことを、子供は求めているのだろう

人生はマジメにコツコツ生きることが、結局は一番の近道だったりする。
だが、物事を100%全力投球で取り組んだら、恐らく心身を壊してしまう。

時には手を抜くことが必要になるし、緩急を以て物事に当たることが必要になる。
だが、若い頃はその辺の加減が分からなくて、何事にでも全力で体当たりしてしまいがちだが、その過程でイタイ目に遭ったり、努力が報われなかったりすると、だんだん気持ちが荒んでくる。

そんな時、マジメに生きても何も良いことないや、と思ってしまえばそれまでで、どうしたらうまく道が開けるのだろうと模索することで、思わぬところでスコーンと風穴が開く時が来る。

そうやって、良い意味で手を抜く所と、しっかり手をかける所を分けて、うまく調整していくこと、それが物事をうまく循環させていくことになる。

これも経験で学んでいくことだ。人間には学ぶ力がある。分からないからと言って腐るのではなく、分かるまでどこどこまでも自分と闘っていくこと、その先にマジメの次の段階が待っているのだ。

人間、マジメだけではうまくいかない…ということだ


秋のお彼岸となり墓参に行くと、多くの方々が参拝に訪れている。
家族揃って、先祖代々のお墓をキレイにし、花や食べ物を供えて手を合わせる姿を見ると、日本人もまだまだ捨てたものじゃないな、と思う。

日々多くの事件が起き、心が痛むことが多いが、きっとこうやって先祖のことを敬い、手を合わせる心を持ち合わせている人には、ご先祖様のご加護が厚いだろうから、悲惨で不幸な出来事は巡って来ないだろうな、とも思う。

最近、我が家の家系図を作成することになり、本籍地にある除籍謄本を取り寄せる機会があった。
古いものは江戸時代末期までの記録しかないのだが、それでも何十人という血の繋がりがあるであろうご先祖様方の名前や関係性が分かった。

自分の命は、この人達がいてこその賜物だ。
この人達の誰が欠けても、今の自分が生れてくることは無かったのだ。
そう考えると、今こうして生かされている事柄の中には、数多くの必然、偶然的出来事の繰り返しがあってのことなのだと思わされる。

目には見えないご先祖様だが、今ここにある自分は、間違いなくそれらと繋がっている。
そこに思いを馳せながら、墓前に手を合わせることで、そのチャンネルを合わせているのかもしれない。

更に、もしかすると、自分のルーツは、前世と繋がっているのかもしれない…と、ふと思った。
なぜなら、縁のない所には生れてこないからだ。
ご先祖様を大切にすることは、前世の自分をも大切にすることなのかもしれない

大切なものならば3のつづき。

周囲の人達を見ていると、過干渉と無関心の両極端を感じることがある。

もちろん、立派に子育てをしている家庭はたくさんあるし、圧倒的にそちらのほうが多いとは思うが、周りがお膳立てをしないと何も出来ない人を見ていると、親が過干渉なんだろうな、と思わされるし、世間の常識などいっさいお構いなしの言動をする人を目にすると、ちゃんとした養育を受けていないんだろうな…と思わされる。

過干渉は一見すると親が熱心に子育てをしているように思えるが、子供の自立心の芽を摘み取り、自ら考える力を奪っている。だから、親や周囲の人が全てを準備してあげないと何も出来ない赤ちゃん状態になってしまう。

無関心に陥る親は、かわいいのは自分だけ。子供のことは邪魔でしかない。だから子供の世話は適当だし、ヘタをすると虐待を加える。その親もまた、自分の親からそういう育て方をされているのだろう。

過干渉と無関心は相反するように見えるが、表裏一体のように思う。
両方共、自分の心が満たされなかったことを、子供を通して追体験しながら、それに対する復讐を果たしているとも言えるのではないだろうか。

この二つに向かうのは、適切で十分な愛情を注がれることなく育ったことが大きな要因だ。
愛情はどんなにお金を積んでも買うことは出来ないし、手に入れることも出来ない。

大切であればあるほど、理屈ではない、心から自然と溢れる愛情が何より必要になる。
どんなに人間が賢くなろうと、便利な世の中になろうと、「愛」に勝るエネルギーはないのだ

大切なものならば2のつづき。

若者たちは「良い子」であることに疑問を感じないのだろうか?と思うことがある。
親の言うことを聞き、世間のルールからはみ出さず、まじめに生きていくこと、冒険をせず無難に生きていくことを良しとしている風潮があるように感じる。

確かに協調性を持ち、人としてまじめに生きていくことは大切だ。それ自体には何の問題もない。
問題は、親がレールを敷き過ぎて、自らの頭で考える訓練を積んでいないことだ。

新入社員や20代の若者達は、良い子が多い。目上の人の言うことを素直に聞き、言われたことはきちんとやる。
だが、言われたことは!だ。
つまり、言われなかったことはやらないし、臨機応変に対応する、ということが出来ないのだ。

それに対して説明すると、「はい、分かりました…」と言うだけ。
なんだかな~~、覇気がないと言うか何と言うか…。

そんな若者を目の当たりにして、親達は大抵「何でこんな子に育っちゃったんだろう」と言う。
オイオイ、そんな子に育てたのはアンタだよ!!!と言いたい。

かわいい我が子にとって何が大切なのか、かわいさという名の愛情が心の目を曇らせ、ただただ守るだけ、保守的に育てた結果が今なのだ。
我が子のふがいなさを嘆く前に、人として生きる力、知恵を授けなかった己を省みない限り、言われたことしか出来ない、言われないことはやらない若者は増える一方だ。

教えれば学ぶとは言え、成人を過ぎてから人として生きていく術を教えるというのも、何とも骨が折れる話だ。いくら親が長生きする時代とはいえ、いつまで経っても子供は独り立ち出来ず、親も子育てから解放されない。
それもこれも、自分が招いたことだけどね…

親は子供が痛い思いをしないようにと、幼少期から子供を叱る。
感情的になるのはよろしくないが、生まれてきたばかりで、世の中のことなど何も分からないかわいい我が子が、世間の荒波で心を痛めないように、という深い親心が根底にはある。

だが、人間とは身を以て体験しないことには学べない生き物だな、とつくづく思う。
日々ニュースなどで心痛む事件が起きているにも関わらず、それを我が身に置き換えて考える、ということをしないというか、想像さえ出来ないのだろう。

「自分だけは大丈夫」という、根拠のない自信だけで生きていると、どうしたって足元をすくわれる日がやってくる。
そんな時、周囲は「ほら見たことか…」と舌を出しているが、当の本人はケロッとして、「やっちゃった!」くらいの軽いノリでいることが多い。というか、軽く受け止めないと、心が折れてしまう、という見方も出来るが…。

そうやって、人は幼い頃から多くの方々から叱咤激励を受けているにも関わらず、やっぱり失敗してしまうのだ。
失敗することは悪いことではない。そこから学ぶことは多いし、それをバネによりステップアップすることだってある。

何十年生きても、やはり人は愚かなことをやってしまう。それが人間なんだろうな、とも思う。
多くの方から学んだことを土台とし、新たな失敗を重ね、そうやって身につまされながら、自分が理想とする人間へと進化していくのかもしれない

安保法案で、日本は大きく揺れている。
第二次世界大戦のような惨劇は、二度と起こしたくない!という人々の思いは間違っていない。
平和であることはありがたいことだし、大切に次世代へ受け継いでいくべき事柄だ。

だが、人間の歴史には常に戦争が付きまとっている。
江戸時代の300年間を除けば、人類の歴史は闘いの歴史と言っても過言ではない。

その度に男性は戦争に駆り出され、国のために命を捧げてきた。
生活だって、「男だから!」という理由で男性に求められる課題は多くあっただろう。

平和な世の中になり、男性にそんな難題は課せられなくなった。
今や男性が美容に傾注したり、性同一障害で「自分は女性の心を持っている」という者が続出。

男性が男ではなく、どんどん女性化している昨今だ。
このままだと、男性の在り方はどうなっていくのだろうか?

闘うことでしか男の役割を果たせないのなら、男性は生き延びることは出来ないのではないか?
男性が次にどういう発展を遂げるのか?そこに男性の進化のヒントが隠されている気がしてならない

THEカラオケ・バトルは好きな番組で、いつも見ている。

歌がうまいのは言うまでもないが、参加者一人一人の心模様や、歌にかける願い、歌うことが好きで好きでたまらない、といったその人となりが歌に現れていて、聞く者はそこから多くのパワーをもらえる。
カラオケマシーンが採点するのだが、それ以上に奥深い何かを感じるからフシギだ。

人には誰でも得意なことが必ず一つはあるはずだ。
自分では大したことではないと思っているようなことでも、他人から見たら「スゴイな~」と感心することだってある。

せっかく生まれる時に握りしめてきた才能ならば、いかんなく発揮すべきだ。
例え、それが自己満足だったとしても、もしかすると自分の知らないところで、誰かに影響を与えているかもしれない。

苦手なことを努力する必要もあるが、得意なことを生かして喜ばれれば、自分もうれしい。
得意で自分も喜び、周りも喜べる日々になれたら、毎日が更に楽しくなるだろう

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