前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

2016年02月

心を満たす4のつづき。

「私は私、だから気に添わないことはやらない!」という人がいる。
若い時なら、「わがままだな~」と笑って済まされるかもしれないが、中年になったら、ただの「困った人」でしかない。

学校を卒業して、早い人なら10代から、上の学校を出たら20代には社会人になる。
誰もがほぼ同じスタートで社会人になるのだが、その中で、日々研鑽し、実力を地道につけた人は、中年になった時、何でも出来るようになっている。

楽することばかりを考え、面倒くさいことを人に押し付けてきた人は、中年になった時、戦力外通告を受けるハメになる。
その時、大概そういう人は「何で?」と言う。

同じ年月を過ごしてきた中で、まったく実にならない日々を過ごしてきたことにまったく気付いていないのだ。
おめでたいと言えばおめでたいが、ある日ふと気付けば、周囲にいるイキイキ光り輝く出来る人間を見せつけられることになる。

周囲から疎まれるなんて、なぜこんなヒドイ対応をされなくてはならないのか?と悶々とした思いを抱えた人の心が満たされることはまずない。

人を羨み、妬み、己の努力不足に気付けないなんて…何ともお気の毒なことだ

たまたま点けていたテレビから、ダイヤモンドネックレスのテレビショッピングが流れていた。

宝石にまったく興味のない私だが、光り輝くそれを身に着けたモデルさんが、テレビ用のコメントをこれでもか!と連呼する中で、「着けてみたら、さらに輝きが増しましたね!」というコメントに「オッ!」と、触手が動いた。
そうか、人はヒカリモノを身に付けると、光るのか!と。

だが、本来は「ボロは着てても、心は錦~♪」であることが最も大切なのだ。
物質的なヒカリモノを身に付けなくても、内面から光り輝くものを発せるような人になること=徳の高い人間になることが、本物のヒカリモノなのだ。

とは言いつつ、どうすればそうなれるのか?
それは、自分で模索し続けることになるのだが、ある時、気付いたら周囲に自分を慕う人が集い、自分も心から安らげる居場所になれていた時がゴールなのかもしれない。

ヒカリモノに頼らずとも、自分自身から光れる人間になりたいものだ

満員電車内では、日々なのがしかのドラマが繰り広げられている。

先日も、車内で大声を張り上げ、何かをわめいている男性がいた。
声からすると、老人のようだが、何せ言葉がハッキリせず、何を言っているのか分からないのと、人が多すぎて、その姿を目にすることが出来ないのだ。

周囲の人たちも、皆同じ方向に目を向けるが、別段気に留めるわけでもなく、すぐ目の前のスマホに視線を移す人、知らん顔する人ばかりだった。

車内で具合が悪くなった人がいたとして、せいぜい席を譲るくらいはするが、誰もそれ以上のことはしない。
走行中、いきなり「バタ!」っと倒れる人もいるが、それでも周囲は冷静で、とりあえず状況をよく観察してから、誰かがようやく声をかける、というのがお決まりだ。

車内で喧嘩が起きた時も、ひとまず周囲は知らん顔。乱闘騒ぎになると、電車が停車すると同時に、皆その車両から出て、隣の車両に移る、というありさまだ。

朝の慌ただしい時間帯にホームでうずくまっている人がいても、基本誰も声はかけない。
こんな時間に具合が悪いのなら、出てくるな、ということだろう。

中には、生死を分かつような急病になる人もいるだろう。だが、そういう人には、誰しもが気配を察し、声をかけるのだ。その眼力たるや、長い間東京に住んでいると、見分けられるようになるのだ。

つまりは、本当に具合の悪い人以外は、すべてただの「かまってちゃん」ということになる。
誰かに声をかけて欲しい、おおごとにして周囲を驚かせたい、という考えが見え見えなのだ。

都会人は冷たいというが、そうではない。冷たいと思う人間の考えが、甘いのだ

高嶋ちさ子氏のしつけが話題になっている。
話題になるくらいなら良いが、炎上、バッシングされているというからただ事ではない。

彼女の性格はどちらかと言えば破天荒で理不尽なこともあるが、間違ったことは言っていないと思う。
そのことが生れた時から分かっている子供達だから、きっと子供なりに母親の行為を受け止めているだろう。

それを、他人がギャースカギャースカ意見すること自体おかしい。
ゲーム機を折ったことは虐待にならないし、もともとはルールを破った子供が悪いのだ。

悪いことをすればお仕置きされるのは、昔からあることだし、私が子供の頃は今でいうところの虐待に当たるほどの体罰を受けるのは日常茶飯事だった。

それぞれ家庭の事情は違う。
優しい言葉で言うことを聞ける子もいれば、叩いても言うことを理解出来ない子もいる。
暴力を肯定するわけではないが、愛ある体罰が心に響くことだってあるのだ。

そこは、やはり互いの信頼関係あっての事柄だ。
どう見ても虐待と思えるようなことでない限り、他人がどうこう言うのはお門違いだ。
そんな人に限って、自分の家がおろそかになっている…なんてことにならないように

アメリカの先住民はインディアンだ。
今のアメリカは、ヨーロッパの移民が創り上げたものだ。

黒人達は、そんなアメリカ人達に連れてこられ、奴隷として非人道的な扱いを受けた。
南北戦争で黒人の奴隷解放とはなったものの、人種差別は今も根強く蔓延っている。

黒人を奴隷のように差別する白人だって、もとはと言えばヨーロッパで貧しい生活を強いられていた人達だ。
素性に大差がないのに、肌の色が違うというだけで差別する、というのは何とも滑稽だ。

アメリカの大統領選挙で、不動産王が破竹の勢いに乗っているが、その姿の何と品のないこと。
まさにアメリカンドリームを地で行く品のなさだ。
こんな人が一国の大統領となったらと想像すると、空恐ろしい。

世の中には、触れてはいけない分野がある。
彼はまさにそのパンドラの箱に手をかけようとしている。
ヘタをすると、その身を亡ぼすことになるのでは?と、他人事ながら危惧してしまう。

人間には守るべき品位と、触れてはならない世界があるのだ

苦手だな…と思う人とは、極力接点を持たないようにしているが、ひょんな場所でバッタリ!なんてこともある。
知らない間柄ではないから、挨拶くらいはする。時には、仕方なく世間話をするハメにもなる。

当たり障りない会話で何とか場を凌ぐのだが、そんな中、相手から爆弾発言が飛び出した。
それも、エレベーター内でのことだ。
その人は、今の自分の不遇は周りのせいで、周りの人達がおかしい…といった趣旨のことを言った。

おーーーい!!!確かに、それが事実だったとしても、それによって自分が追い詰められていたとしても、その場では言うべきことではなかった。

それに、周囲がおかしい、という前に、そんなことを簡単に口にしてしまう自分もおかしい、ということに気付けないと、負の感情から脱することは出来ない。
やっぱり自分が常に正しいという確固たる信念?があるのだなと、改めて思わされた。

それにしても、客観的に己の今ある姿を見れないというのは、自ら不幸を招いているな…と、その人を通して学ばされた

朝の満員電車で、具合悪そうにしている初老の女性がいた。
見ると、右腕には包帯が巻かれ、座席の隅にある手すりにつかまっていたが、そのうち崩れるようにしゃがみこんだ。

その前に座っていた女子高生は、まったく知らん顔。
普通なら、目の前で初老の女性が具合悪そうだったら、思わず席を譲るだろう。
しかも、彼女は次の駅で降りるのに。というのも、彼女の制服から分かった。

見かねた隣の席の女性が、初老の女性に席を譲った。
すると、「何だか気分が悪くなって…ごめんなさいね」と、謝りながら座る初老の女性。
次の駅に電車が停車すると、席を譲らなかった女子高生は何食わぬ顔で下車していった。

だが、私の頭の中では、と~~ってもデジャブー感があった。
というのも、この初老の女性、以前にも同じことを他の車両でやっていたからだ。

恐らく、日によって乗車する場所を変えては、具合の悪い振りをし、同情心を煽って席を譲ってもらっているのだろう…と、推察される。
万一、本当に具合悪かったら、通勤出来ないよね!?

席を譲らせるために芝居する初老の女性。そのことを知ってか、知らでか?席を譲らなかった女子高生。
う~~~ん、どっちが性悪なんだろう?

心を満たす3のつづき。

モンスターペアレントや、モンスタークレーマーがいる。
彼・彼女らは、心が満たされない者の代表だろう。

現実に、苦情申立が必要なことは確かにある。
だが、それはあくまでも客観的に苦情の対象となる事実を伝え、その問題を解決してもらえばいいだけのことだ。

それを、ここぞとばかりに罵詈雑言を浴びせたり、相手が土下座して謝罪するまで怒り狂ったり…という姿は、既に苦情申し立ての域を越え、ただの脅しでしかない。

始めは平常心で伝えているつもりが、徐々に感情がエスカレートすることもあるだろう。
今まで我慢していたあんなことやこんなことが、堰を切ったように、暴言という名の本音が吐き出されていく。

いずれの場合も、普段抑圧された心があるからそうなるのだ。
人間には理性があるから、理性で蓋をしている間は良いが、それが一度外れてしまうと、自分でも制御不能となってしまうのだ。

自分で知らない間にモンスターにならないように、日々を心穏やかに過ごせる術を身に付けることもまた、大切な課題だ

心を満たす2のつづき。

心を満たすために、他人や物に依存する人がいる。
要は、心が寂しいから、誰かにかまって欲しい、苦しさから逃げたいから、食べ物や薬に逃げる。

それで、一時は心が満たされるかもしれないが、時が過ぎれば、また心に渇きが広がる。
恐らく、自分でもなぜそうなるのか?自問しても答えが見つからないから、また同じことを繰り返すのだろう。

依存することは、いずれ自分を破滅へ導くと本能では分かっていても、己の欲がそれに勝てないのだ。
結局は、自分に負けているだけのことだが、当人にしてみれば、「そんなことは言われなくても分かっている」のだ。

では、なぜ依存するのか?それは、心が満たされないから。
つまりは、幼い頃に、十二分な愛情を注いでもらえなかった結果が、いつまで経っても満たされない心を生み出しているのだ。

愛情は目には見えない。子供を思う親の愛は無限ではあるが、それを持たない人もいる。
そんな親に育てられた子供は、愛を知らない。だから、周囲を大切にすることが出来ないし、満たされない心が己の心をかき乱し、苛立たせるのだ。

とはいえ、今さら幼子に戻って、親や周囲の人たちに、事足りる愛情を注いでもらうわけにもいかないだろう。
今出来ることは、自分を精神的に高みへと引き上げてくれる人と付き合うことだ。
とは言え、そんな人と出会うことは稀有だ。

そんな人と出会えるためには、どんなに苦しくても、寂しくても、自分が成すべき事柄と真摯に向き合い、ただただひたすらに精進するしかないのだ。
自分が積み重ねたものは、必ず自分に戻ってくる。

満たされない心との葛藤を抱えながら、自分に負けない自分になるしかないのだ

腕一本ものつづき。

先週の土曜日に上がらなくなった左肩腕。
何をしても痛みが治まらず、夜も眠れなかったことから、かかり付けの整体師に日曜日の夕方に見てもらった。

一見した症状は五十肩だったが、急性の炎症が原因で、肩から腕が上がらなくなっていた。
20代の頃に親知らずを抜いた時に、首に過重な負担がかかり、首の骨がズレた経験がある。
それ以来、疲れが溜まると首が痛むし、ひどいとギックリ腰ならぬ、ギックリ首になる。

常日頃から、首を含めた身体全体のメンテナンスをしてもらっている先生だからこそ、私の弱点を良く分かっていて、適格な治療をしてもらえた。
だが、その炎症たるやハンパなく、治療後には高熱を発したほどだ。

それでも、何とかその1回の治療だけで翌日会社には行けた。だが、1日中の勤務はムリだったので、昼で早退した。
結局火曜日まで腕は上がらなかったが、月曜日から痛みも治まり、良く眠れるようになった。

そして、今日また治療に行った。炎症は治まったものの、まだ鈍い痛みがくすぶっている。
これを放置しておくと、またぶり返すもしくはクセになる可能性もあるから、しっかり根から痛みを絶つ治療を施してもらった。

腕一本だが、身体の異変を感じ、疲労が弱いところに集中する。
その機能もスゴイものだ。身体には自分の意思とは関係なく、防衛本能が備わっているのだ。
自分の身体ではあるが、その働きに感謝する気持ちを忘れてはならないと思う

仕事でミスをしたら、「ごめんなさい!」と、まずは謝るだろう。
だが、これも度を越えると、ただの口癖にしか聞こえない。

何度も同じミスをし、指摘する度に、「ごめん!ごめん!」と言いはするものの、まったくミスは改善されない。
仕事の処理能力が遅いうえに、ミスをしても悪ぶれるわけでもなく、自分がミスしたことを「ウソだ~!」「もう、ヤダ~!」などとのたまう。

あのね~~~、それはこっちのセリフよ!!!
「あんたのミスで、どれだけ周囲が迷惑してると思ってるのよ!!!」と、言いたいのをグッと堪える。

周りから指摘される度に、「ごめん!ごめん!」を連発するので、「ごめん、ごめん詐欺」と命名させてもらった。
もうこうなると、周囲からの信用は失墜の一途を辿る。

こんな生き方しか出来ないのも気の毒ではあるが、周囲も大迷惑だ

心を満たす1のつづき。

人の気を引き、自分に注目を集めることで、心の満足を得ようとする人がいる。
周囲から「すごいね~!」と賛辞を浴びたいのだ。

本当にスゴイことが出来る人は、自らそんなことはしない。
黙って自分のやるべきことをコツコツこなし、気付いたら、周囲が「スゴイよね!」と騒ぎ出す。
これが、本当にスゴイ人だ。

自分が空っぽな人間は、自分はこんなにスゴイ!と猛アピールする。
最初は人も話に乗ってくれるが、それが度重なると、自然と人は離れていく。

すると、さらに上塗りするように猛アピール+ウソを紡ぎ出す。
ウソが劇的であればあるほど周囲も乗ってはくるが、これもそのうちすぐに飽きられる。
そして、最後には「あの人は信用ならない」というレッテルを貼られ、何をしてもうまくいかなくなる。

心を満たすために浅知恵を絞った結果がこれだ。
何事も、中身がなければ周囲をナットクさせることは出来ないのだ。

己の無知を自覚し、出来ることから精進するしか道はない。
それなくして、心の充足は有り得ないのだから

人は皆違う性格で、趣味趣向もまちまちだ。何に満足感を覚えるか?どんな時が楽しいのか?
人は誰でも、心を満たすために日々精進している。自分ががんばったことを誉められれば、それが心の充足へと繋がる。

心の穴を埋めるために、時に人は周囲に迷惑をかける。
周りがどんなに忙しくても、自分の話したいことを延々と話し続けたり、自分のしたいように振る舞ったりする。
そういう人は、既に自分のことしか頭にないのだ。だから、周りに迷惑をかけていても、何とも思わず、同じことを繰り返すのだ。

そういう人は、かまってくれる人を熟知している。
心が病んだら、「良い子ね~」と言って甘えさせてくれることを本能が嗅ぎ分けているのだ。

人は誰にでも弱い部分がある。それを親しい間柄で慰めたり、励まし合ったりするから、また活力を持てる。
それ自体は悪いことではないが、「度を越えた、かまってちゃん」が多すぎるのだ。

このブログのカテゴリー「居心地の良い場所」でも、書いているが、自分の心を満たすために、かまってちゃんになったり、かまいたこちゃんになるのだ。
これは、ただ単に心が、精神が大人に成長していない証だ。

心が満たされないと、人間はいつまで経っても、真の大人にはなれない…ということなのだろう

2015年の日本は、100歳越えの高齢者が6万人もいるそうだ。
その中には、生存確認の出来ない人も多くいるだろう。
自治体などが調べてみると、かなり前に亡くなっていて、死亡届が出ていないということがあるそうだ。

子供がいるとしたら、親がその歳ということは、子供だってそれなりの歳で、社会人として全うな思考回路があれば、やるべき手続きは分かるだろうし、分からなければ、誰かに相談するだろう。
だが、それもせず、「生きていた」ことにし、年金だけはちゃっかり受給している、という現実がある。

先日、老舗の天ぷら屋にランチに行った。お手頃価格で、揚げたてのウマイ天ぷらを食べさせてくれるのだが、そこに高齢者の親子が2組いた。しかも、その2組共、親が支払いをしていた。
子供はどうみても、半世紀を過ぎているか、そのちょい前くらいの、社会人だ。

まあ、いろいろ家庭事情はあるだろうし、その時はたまたまだったかもしれないが、私がその立場だったら、というか、普段から親に払わせるなんてことはしない。恥ずかしくて、そんなことは出来ない。
しかも、親は年金しか収入源がないのだから、外食したら子供が奢るのは当たり前だと私は思っているからだ。

親は子供がかわいいから、何歳になっても何かをしてあげたいと思うのだろう。
その思いは尊いが、いい歳した子供を甘やかすのはどうだろう?というのが正直な感想だ。
その甘やかしが、子供をダメにしているのだ。

親は死んでも死ねない…なんてことにはならないように、親も子も、精神の自立だけは成し得ていたいものだ

※カテゴリー「縁」シリーズの続き。

元大物野球選手が麻薬所持で逮捕された。
この件は、ずいぶん前から週刊誌にも取り上げられていたし、薬の多量摂取で救急搬送されたこともあれば、外国で事情聴取を受けたこともあるという。

それでも逮捕されなかった理由とは?
それは、大きな後ろ盾があったからだろう、と推察する。

彼が逮捕された時を同じくして辞任した政治家がいる。あまりにもタイミング良過ぎないか?
大きな後ろ盾がある間は、どんな事実が発覚しても、絶対と言っていいほどおおごとにならない。
それは、影で誰かがそれをもみ消しているからだ。

ニュースでも、事件の一報が伝えられた後、何事もなかったかのように、それについては一切報道しないものがある。それらはまさにこれで、誰かの力でもみ消されているのだ。

かの夢の国でも、事件は起きている。実際に働いている人から聞いた話だから間違いないが、それらが表沙汰になることは決してない。そんなことは、想像するだけでも両手に余るくらいあるほどだ。

人間には、多かれ少なかれ、何がしかの後ろ盾はあるだろう。それがあるから、助けられながら生きていけるのだ。
だが、その後ろ盾の方向性が間違っていたらどうだろう?破滅の道へと進んでいるのに、その後ろ盾のせいで、まっとうな道に戻れないのだ。

後ろ盾がある間は良いこともあれば、そうでない場合もある。
自分にとって確かな後ろ盾に巡り合うこともまた、大切な縁なのだ

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