前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

2016年04月

私は幼稚園の頃から10年間ほど、とある田舎町で育った。
だが、幼児時代を東京で過ごしたせいか、田舎にいる頃は、意味もなくその場所がイヤで、幼いながらも、いつも家出を考えていた。

家から見える山を見て「あの山をどうやったら越えられるのだろう?」と、子供用のチャリンコに跨り、果敢に山越えにチャレンジするも、山どころか、町の端っこにさえたどり着けないありさまで、いつも苛立ちが心の奥にあった。

田舎に引っ越してから10年後、高校生になる時期に、再び東京に戻ることが出来た。
その時、ようやく慣れた田舎を離れる寂しさと、なぜだか自分でも分からないが、「やったー!」という喜びが交差した感情があった。

東京に戻ってから、私は水を得た魚のように、毎日がイキイキし出した。
やっぱり自分には東京の水が合っているな~と感じる。
あれからン十年!経ち、時々その田舎にやって来るが、そこにいた10年間があったからこそ、東京のありがたみがより際立つのだな…と思う。

人には、居るべき場所がある。それは、自分にとって必然であり、居らねばならない場所なのだ。
縁あっている今を、この場所を、自分の出来ることで頑張れていけたら…と、心から願う

長い年月仕事をしていると、徐々に自分に向いた仕事、出来る仕事、相性の良い相棒等々が決まってくる。
ここに行き着くまでには、多くの事柄があった。

「何でこんなことやってるんだろう~」
「こんなハズじゃなかった~」
「どんだけ働けば良いの~」
等々、精神的、肉体的なキツさはハンパじゃなかったな~としみじみ思う。

だが、数多くの至難を乗り越えたからこそ、次のお題が前よりもラクにこなせるようになっているのも事実だ。
一見ムダなように思えることも、ムダと思えばムダだが、それにも意味があると思って取り組んでいると、自然と次に繋がる。

そして気付くと、自分の得意を生かした仕事が出来るようになっているし、自分の働きを評価してくれる人が集まって、自分を助けてもくれるのだ。
「なんとも、ありがたいことだ~~」

目の前にあることを、ただただひたすらに励んできただけだ。
その姿は、周りにも伝わるし、自分の思い、願いは実現していくものだ…と、実感するこの頃だ

朝の通勤時、交差点の向かい側から4才位の双子の女児が、笑顔で走ってきた。
保育園に行く途中のようで、双子の後ろから、父親らしき男性が、これまた笑顔で走ってきた。

双子は後ろを振り向きながら、父親が追っかけてくるのを確かめると、またキャラキャラ笑いながら走り始める。
その姿が何とも微笑ましく、可愛らしいな~と、朝から癒されてしまった。

父親も、娘達がこのうえなく大切で、かわいくて仕方ない、といった表情だ。
こんなふうに、親から愛され、安心して育つことの出来る子供は、幸せだ。

さらに、その存在が周囲を幸せな気持ちにしてくれる、温かい心持にしてくれるとは、何とも素晴らしいことだと、その親子を見てしみじみ思った。

心温まる場所はすぐ近くにありそうだが、たまにしかこういう光景に出遭えないのだから、簡単そうで難しい事柄なのかもしれない

熊本の大地震で活躍しているのは、子供達だという報道を見た。
地震の影響で休校のこともあり、子供達は避難所でのボランティアを買って出ているのだ。
高齢者の多い場所だけに、若い力が多いに役立っていると共に、大人達への励ましにもなっている。

人間は歳を取れば取るほど心身の自由が利かなくなる。
周りの役に立ちたいと思っても、起きた災害の現実に茫然自失となり、人によっては生きる気力さえ失うのだ。

だが、若者達は前を向くことしか考えない。それは、若いからこその強みだ。
多くの艱難辛苦を通ってきた人にしてみれば、またあのような苦しみを経験せねばならぬのか…と思うだけで、気力が無くなるのは当然かもしれない。

親や周囲の庇護の元、守られているだけの子供達が、自分の意思で周囲の力になりたい、という思いが湧くことはありがたいことだし、子供達にとっても大きな成長の糧となる。

恵まれた環境も悪くはないが、やはり幼いうちから多くの経験を積むことこそが、その人間にとっての大きな財産となるのだ。
自らの頭で考え、心で感じ、行動に移すことが何よりも大事なのだ

江戸時代頃までは、人の平均寿命は50歳ほどだった。

10代のうちに成人を迎え、結婚し、子供を設ける。
早い人であれば、40歳前には孫がいたことだろう。
残り10年が隠居生活で、50歳頃にはこの世からいなくなるのだ。

そのおかげで、子供は否が応でも成長する。
親が亡くなる前に、生きる術を叩きこまれ、家庭を持ち、一人前の大人として生きていくのだ。

現代は、親の寿命はその倍ほどだ。
そのせいで?親はいつまでも子供を子供扱いし、子供は成長出来ずにいる。

だが、子供も一人の人間として、己の道を歩んでいきたいのだ。
親が元気で長生きしてくれることはありがたいことだが、それが子供の成長を阻害するとは、大いなる問題だ。

親も子供も、成人後は一人の大人として自立した生き方を目指したいものだ

熊本の大地震では、多くの家屋が倒壊した。
長い年月をかけて手にした家や家財道具等々、一瞬にして失ってしまったのだ。

家屋が無くなっても、命が助かればそれだけで充分!という謙虚な人がいる一方で、それらを失ったことを災害のせいにし、恨み節を唸る人も多いだろう。

確かに、先祖代々から受け継いだものや、汗水垂らして苦労の末に手にしたものであれば、余計その思いが強いのは当然かもしれない。

だが、そもそも論として、その家屋、土地は誰のものだろう?
自分が努力した事実は確かだが、土地も家財の元となる資材はすべて自然からの賜り物だ。

私達は、自然から大いなる恩恵を受けて生かされているのだ。
その働きの中で起きる地震、台風、竜巻、干ばつ…等々なのだ。

人間心で考えれば、それらを恨みに思うかもしれないが、その自然がなければ、私達は生かされることはないのだ。

手にした財産が全てという価値観は、いかがなものだろう?

人に蔑まれるような境遇から出世した者の中には、なんだかな~という人がいる。

人より多くの苦労をすれば、その痛みや苦しみが理解出来るだろうし、同じ境遇にいた人に力を貸したい、というのが人情だろうが、なぜだか、蔑む側に立つのだ。う~~~ん、理解不能だ。

自分が優位な立場になったことで、それを見せつけたいのか、弱者に対し暴言を吐いたり、意地悪をしたりする。
そうやって、人をいたぶる事で優越感を覚えるのだろうか。

だが、そんなことをすれば、出世するまで一生懸命がんばってきたことは「無」になるし、何より、周囲からの信用を失うことになるうえに、何か事が起きた時に、誰も助けてはくれなくなるのだ。

そういう人を目にすると、「ちっちゃい奴だな~~」と、嘆かわしく思う。
ちっちゃい器が、自分の首を絞めていることに気付けないのも、やっぱり器がちっちゃいせいだろう


南米、・エクアドルでも、熊本とほぼ同時期にM7.8の大地震が起きた。

熊本で地震が起きていなければ、恐らくエクアドルの地震を大々的に報道し、多くの人々の気持ちが、エクアドルへの救・援助に向かったことだろう。
まさに、「他人事ではない」状態が、今の日本だ。

日本に住む外国人留学生が熊本の大地震に遭い、地震国の恐ろしさを身を以て体験したが、周囲の人たちが、自分のことは置いて、まずは他人を優先し、援・救助する姿に感動した、という記事を読んだ。
こちらも、まさに「他人事ではない」という図だ。

「他人事」は、「ひとごと」、「たにんごと」、とも読む。
その意味は、「人のことをかまっている場合ではない」のと、「他人の事柄ではない、自分にもある事柄だ」という意味に取れる。同じ言葉でも、意味は真逆だ。

あくまでも、「たにんごと」なのだが、だからこそ「たにんごと」では済まされない、ということだ。
ここに、日本人の気質が、その良さと悪さが現われていると感じる。

「他人事ではない」と思う人は、率先して周囲を助ける。
「他人事だ」と思う人は、平気で被災した家に入り、盗みを働くのだ

世の中には、理解不能なまでに物事を理解出来ない人がいる。
どういう脳みその構造なのか?どういう環境で育てば、周囲の言うこと、成すことを理解出来ないのか?

ただの人付き合い程度ならまだ何とかごまかしながらも付き合えるが、これが仕事となると、かなり厳しい。
ましてや、周囲の理解度が同じくらいだと、余計悪目立ちこの上ない。

当の本人が一番心を痛めているかと思いきや、同調する心がないから、そんなことはまったくおかまいなし。
怒りを覚えるこちらがアホみたいな始末だ。

ただし、マジで叱る人の顔色は窺える。ということは、人によって使い分けている、ということになる。
ナメてかかれる人には徹底してナメまくり、怖い人にだけ従う、という何ともテイタラクなありさまだ。

その場を何とか凌げればそれでよし、という人生を送ってきた人だ。
これから先も自らを高め、成長する気はないらしい。

一生それで済めば良いが、取り返しがつかなくなってから後悔しても遅いのだが…

熊本の大地震は、未だ大きな余震が続いている。
行政が指定する避難所はいっぱいだったり、道が寸断されてそこまで行けない人、高齢で移動出来ない人等々、おのおのが工夫を凝らして避難生活を強いられている。

そんな中、日本中から救援物資が続々と届いているが、それらは主に行政が指定する避難所にばかり配られ、自主避難している所にはまったく届いていないそうだ。

昨日ニュース番組を見て驚いたのは、行政指定の避難所に物資を運ぶ命令を受けた自衛隊が、既にそこには物資が配られた後のため、代表者が足りない避難所に回して欲しいと頼むと、「命令だから他には回せない」と言った、というものだ。

確かに、自衛隊は命令が全てだから、命令通りに動いただけで、正解なのだ。
だが、すでにお腹がいっぱいの人達に、命令だから食べろ、と言うのと同じことで、食べなければ腐れて捨ててしまうだけ、というのは何だかな~~~としか言いようがない。

行政も被災しているから、指定所以外の避難所のことまで手が回らないのは当然だが、あまりにも杓子定規な対応に驚かされるばかりだ。

まだ余震が強いため、ボランティアスタッフも受け入れられない状態だと言う。
誰もが何とか助けに行きたい!と思っているだろう。
混乱の最中にある被災地が、何とか良い方向に進むことを祈るばかりだ

日本には四季があるため、それぞれの旬を味わうことが出来る。
今の季節は、フキ、タケノコ、ツクシ、明日葉、ぜんまい等々、山や野の幸が満載だ。

人間の身体は、旬のものを身体に必要な分だけ摂取すれば、健やかに日々を過ごせるように出来ている。
味付けが濃く、油ぎったものや、甘すぎるものは、時々は良いのだろうが、毎日摂取すると、身体には負担にしかならないように感じる。

若いうちはいつもお腹が空いていたが、お金がないから多くは食べられず、大人になって少しお金が入るようになると、今度は胃が受け付けず、やっぱり多くを食べられない。
結局のところ、人間の体は粗食で生きられるようになっているのだ。

旬の食べ物をその時々で味わうことが自然な形だし、身体にとっても一番良いのだ。
日本の旬に感謝しつつ、自然の摂理に沿った食事をいただきたいと思う

熊本の大地震は、阪神淡路大震災を上回るエネルギーであり、今までの歴史で最も多い余震の数だそうだ。
震度5以上が1日に何度も起きるのだから、その恐怖たるや、尋常ではない。
避難所の生活も、長期化すればするほど、精神面も辛くなる。

こういうことでもないと、普段自分の家でライフラインが当然のように繋がり、食べるものにも、着るものにも困らない生活のありがたさが身に沁みない、というのも皮肉な話だが、当然であることが実はありがたいことの連続であることを悟れることは、日々を生きる私達にとって、とても大切なことだ。

東日本大震災の時より、テレビ番組の規制も少ないように感じる。
被害に遭われた方々の身になれば、テレビから流れる馬鹿笑いは不謹慎なのかもしれない。
だが、考え方を変えてみた場合、災難を災厄として受け止め、日本中が沈んだらどうなるだろう?
娯楽も自粛したら、アッと言う間に日本の経済は回らなくなるのだ。

被害に遭われた方々に心を寄せ、出来る支援をしながらも、通常の生活を送り続けること、それも大切なことのように思う。
また、支援においても、現地に乗り込んで力になること、物資や義援金を送ること、知人を励ますこと、形はいくらでもある。

大事なのは、被害に遭われた方々が1日も早く元の生活に戻れるよう、その力になることだ。
自分の出来ることは何なのか?一人の力は少しでも、それが集まれば大きな力になる。
まずは、自分から始める一歩をみなが踏み出せれば、それだけ早く復興も進むのだから

熊本から大分にかける大地震、時間と共にその被害が拡大している。
九州には知人が多くいるため、14日に発生した震度7の大地震からずっと、連絡を取り合っている。

熊本にいる知人も、大分にいる知人も、今のところ大きな被害はなく無事だが、いつ何時何があるか分からない、というのが現状だ。
まめに連絡を取り合って、いざという時には力になりたい!と、心づもりだけはしている。

テレビ各局も、地震情報番組だらけだが、その中で、やっぱり今回も無神経な地震学者の発言が気になった。
今朝の情報番組で、「今回のような大きな余震は、今後どれくらい続きますか?」とアナウンサーが質問したところ、「50年は続きますね!」と、意気揚々と答える地震学者。

「いや、そういうことではなく、今避難されている方たちが…」と、近々の大事がいつまで続くのか?という主旨のことを質問しているアナウンサーの言葉を遮り、なおも「こういう断層の大きなズレの場合は…」と、学術的うんちくを喜々として語るのだ。

地震学者の人って、皆ではないが、無神経な人が多いな~と感じる。
普段、めったに起きない大地震に関する研究をコツコツやっているせいか、待ってました!とばかりにイキイキする。
確かに、学術的には恰好のモデルだろうが、その裏で被害に苦しむ人がいる、ということを忘れているように感じる。

まさに学者バカ!だ。
そういう人がいるから、地震の研究も進んでいるのかもしれないが、大金をつぎ込んでいる割には、あまり成果を感じないようにも感じる。

火山大国日本、どこにいても安心ということはない。
今回の地震のようなことが、いつ自分の身に降りかかるか分からないのだ

CONVOY SHOWのつづき。

昨年の11月に初演を観てから5か月後、今宵再演を観てきた。
今回は、前回よりかなり前の方の席だったので、CONVOYのメンバーの細部まで?しっかり、拝することが出来た。

普段、イイ男達を目にする機会がないせいか?彼らが出てきただけで、心がホワ~っとほぐれる。
ああ、やっぱり、イイ男達だ~~~!!!!と、心の中でガッツポーズ!!!

そこからは再演だけど、やっぱり舞台に引き込まれてしまった。
ダンスの腕はやっぱりピカいち!時々、?と思うこともあったけど、そこはご愛嬌!
だって、彼らは1960年代生まれなんだよ!!!2時間半の舞台を無事に勤めあげるだけでも、十分超人だ。

6人が30年揃って舞台に立ち続けていること自体がやっぱり、キセキなのだ。
舞台の主旨にもあるが、お楽しみはこれからだ!!!

50代、歳に負けずに、ますますイキイキと生きたいものだ!と、改めて思わせてもらった。

CONVOYのみなさま、ステキな舞台をありがとうございました

キレる老人のつづき。

老人がキレ易い原因のひとつに、現代人は老人を敬わない、というのがある。

昔は今ほど情報の伝達が早くないから、生きる知恵は年配者から教わるのが日常だった。
そうなると、自然と教えてくれる人を大切にするし、尊敬の念を抱くことにもなる。
それは、老人の自尊心を大切にすることにもなり、老人も若者も互いの利害が一致する結果となった。

今は、スマホやパソコンでチャチャッと情報を取り出せる世の中だ。
クドクド話の長い老人にいちいちお伺いを立てる必要もない。

時には、年配者の意見が有用なこともあるが、その機会が減っている、というのが現実だろう。
情報操作が目まぐるしく進化しているせいで、それについていけない老人は、徐々に排他的な扱いになってしまう。
あまりにも、昔と今が違いすぎる、というのが要因なのかもしれない。

だが、今も昔も、時代は刻々と進化している。
100%追いつけなくても、追いつく努力は必要なのだ。
悠悠自適なリタイヤ生活は、実はこれまで以上に精進せねばならない時間なのかもしれない

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