前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

2016年05月

おやめになっておくんなさいまし4のつづき。

受動喫煙による死亡者が、年間1万5000人にのぼることが分かった。
2010年の段階では6800人と推定されていたが、今やその数は2倍だ。これは、尋常ではない数だ。

しかも、自分が吸ったわけではなく、赤の他人が吸った煙で病気になり、死ぬなんて!
それでも、未だに歩きタバコをするわ、ポイ捨てはするわ、エレベーター、電車内は臭いわ、飲み屋は受動喫煙の宝庫だわ!で、ますますタバコを吸う人とは接したくなくなる。

2020年の東京オリンピックに向けて、受動喫煙を減らすべく、対策を立てるそうだが、そもそも、たばこなんてものは、「百害あって一利なし」で、一服してリフレッシュする人以外には、何の得にもならない、むしろマイナスでしかないのだから、いっそのこと販売を止めて欲しい。

JTも、たばこ事業の他にも多くの分野に手を出し、そろそろたばこがなくても成り立つだろう。
国民のことを思うなら、たばこなんてものは一掃するべきだ!と、個人的には思う。
それが出来ないのなら、喫煙者は隔離して欲しい!とマジで思う。

かなり過激なことを書いたが、それほど「迷惑している!!!」のだ。
喫煙者のパーソナリティをどうこう言う気はないが、マナーがない人には閉口するし、人間性を疑いたくなる。

禁煙者にとって、たばこのない世界になったら、世の中もっと生き易くなることだろう

5月27日に、12時発の高松行きの飛行機に乗ったが、その後、羽田空港で大韓航空機のエンジントラブルによる火災があり、空港は夜まで閉鎖になった。

12時発とはいえ、実際に滑走路を飛び立ったのは、12時半近かった。
ということは、その頃上記の事故は起きていた、というわけだ。

もし、一便後に乗る予定だったら、もれなく旅行は中止せざるを得なかった。

もし、大韓航空機が、滑走路走行中ではなく、飛び立った後にトラブルに見舞われたとしたら…。
想像するだけでも、空恐ろしい。

人生、どんなに順調に行っているようでも、思わぬトラブルは起きるものだ。
すべてを手中にしたように思っていても、思わぬところで足元をすくわれることもあるのだ。

まさに、人生は「一寸先は闇」なのだ

飛行機に乗るたびに、いつも思うのは、操縦のうまいパイロットとそうではないパイロットの違いだ。
それは、離陸と着陸時により顕著に感じる。

特に着陸時が、いちばんの腕の見せどころだろう。
今月は、4回も飛行機に乗る機会があり、そのうち、昨日乗った高松からの最終便のパイロットの着陸技術は見事だった。稀に見る素晴らしい着陸だった。

GW中に福岡に行った際の着陸は最悪だった。
タイヤが滑走路に接地した途端、ドーン!!!ゴゴゴゴゴ~~~~!!!!
身体が前のめりになった。
思わず「ヘタクソ~!」と、口から言葉が出てしまった。
こんなヘタクソな着陸をするパイロットって!?修行し直してこい!!!と、言ってやりたかった。

だが、昨晩の着陸はそれとは正反対。
大きな機体が地面に接したとは感じないほどスムーズで軽やかだった。
飛行機から降りる時、思わずキャビンアテンダントに「素晴らしい着陸だったよ!」と話してしまった。

パイロットの技術も千人十色だが、他の仕事と違ってリスクの高い仕事なだけに、技術は磨いても磨いても足りないほどだろう。

「お客様に安全を」というのであれば、一番の基本である離陸と着陸で、客に心配をかけない仕事をして欲しいものだ

昨日、今日で、四国の香川県に行っていた。
昨日は、12時の便だったので、空港閉鎖の直前に羽田を経ったことになる。

高松空港に着いた途端、ネットニュースで大韓航空機の事件を知り、ゾッとした。
飛び立った後の惨事でなくて、本当に良かったと思った。

昨晩は、丸亀に泊まった。
丸亀城を観たくて行ったのだが、想像以上に良い気が流れる場所だ。
こんなに素晴らしいお城があるにも関わらず、町はかなり閑散としており、商店街はほとんどのシャッターが降りたままで、何とも寂しい感じだった。

その割には子供達の姿をよく目にした。
これだけ若い子達がいるのだから、もっと町を活性化することが急務だ。
そうでなければ、若い子はどんどん都会に出ていってしまう。

丸亀から少し離れた高松は都会だ。
電車で数十分しか離れていないのに、これだけの差はちょっと怖いな…と思う。

最初から何もないのどかな田舎町ならまだしも、大きな商店街があるにも関わらず閑古鳥が鳴いているのだ。
何とももったいない!
若い人達の力を生かし切れるように、行政ももっと真剣に考えないといけないと思う

人間は、多くの経験を通して成長する生き物だ。

物がない時代には、それを手にしようと、必死で働いたり、工夫を凝らしてその代替品を考えたりと、知恵を絞り、身体を酷使してきた。

今は、物質的に困ることはほぼない。
毎日マジメに働き、給料を手にすれば、困らない生活を送れる。
それこそ、コタツに入って手の届く距離に全てが揃っている、といった感じだ。

すると、人間は労することなく便利な生活を送ることになるから、精神も成長出来ず、幼稚なまま大人になるのだ。

昨今の社会人の精神年齢は10歳若いな、と感じる。
成人式を迎える20歳で10歳。成人式に参列する成人達の姿は、まるで七五三の延長にしか見えない。
社会人になって、使い物になる年齢が30歳。ここまで来て初めて、ようやく成人した感さえある。

結婚してからも幼稚さは抜けきらず、DVに虐待を繰り返す人も多い。
まるで、ダダをこねる子供と同じだ。

昔と違って、生活するための選択肢が増えた分、あれこれ道に迷い、大人になるまでに時間がかかるのか、お膳立てされ過ぎて、なかなか大人になれないのか?

そして、気付けば老年となり、暴走老人と化す。
老人になると、精神はまた子供に戻っていく。

人間はいつになったら、真の意味で大人になれるのだろう?

物事は、なぜか同じタイミングでやってくることが多いように感じる。

仕事が重なる時はやたらといろんな所から依頼が舞い込む。
休み前になると、なぜか仕事が立て込む。おまけに、予想外の事態も発生しやすい。

最初の信号が「青」だと、その日は1日ずっとタイミング良く「青」に当たる。
意図するわけではないが、タイミングはまさに巡ってくるのだ。

人には生きるリズムがある。
自分でも知らないうちに、自分なりのリズムの中で生きているのだ。

それが、上手い具合に良い波に乗ると、1日ずっと良い調子になるのだろうか?
多忙の最中にいるとなかなか気付かないが、忙しくなることもまた、ひとつのリズムなのだ

舞台を観に行く機会がある。
大概は、好きな俳優が出ているものを観るのだが、それぞれにおいて共通点があるな、と思うことがある。

それは、ストーリーよりも、登場人物の芸能人としての立ち位置によって、出番が決まっている、ということだ。
ある意味、それは至極当然なのかもしれないが、ストーリーありきではなく、演者ありきだな、と感じることが多い。

また違った意味で、演者ありきだなと感じるのは、ストーリーが押しつけがましいものが多い気がする。
純文学だろうが、シェイクスピアであろうが、何だか、純粋にその世界に入れないのだ。
それは、私の見方が悪いからかもしれないが、何となく演じる側の意図が見えてしまう。

そうやって出来たのが、最近の舞台なのだろう。
何だかワンパターンだな、とさえ思う。

小劇場から大劇場まで、一通りいろいろと見せてもらったが、最近の舞台にはあまり面白味を感じない。
それは、テレビも、映画の世界も同じだ。

テレビなら、素人の挙行を特集したものが一番面白い。
作られたものがあまり面白いと思えないというのは、何だろう?

いろんな意味で、多くの事柄がパターン化しているのかもしれない

「こんなところに日本人」という番組がある。
世界の秘境や、日本から何十時間もかかる僻地に住む日本人を探して会いにいく、というものだ。

レポーターはお笑い芸人やタレント、女優等と多岐に亘る。
恐らく、日本では味わえない最大級に不自由な思いをしながら、現地の人に聞いて回り、重たいスーツケースをズルズル引きずって探し回るのだ。

多くの困難を乗り越え、ようやく会えた日本人。
レポーター達の感慨はひとしおだろう。その思いは、テレビ画面からジワジワ伝わってくる。
それに加えて、そこで暮らす人達の思いや、それまでの苦労、そこに至る道のりを見せてもらうだけでも、胸を打たれる。

己の使命感から、僻地へ赴き、なかには成り行き上のこともあるが、自身の課題から逃げず、それに取り組み、そこで命を終える覚悟を持つ人さえもいる。

日本人はおろか、アジア人種さえいないような場所で、たった一人の日本人として生きる人達の精神力の逞しさは言うまでもないが、そこには、人智を越えた、「そうせねばおれない」魂の導きとしか思えない、見えざる力が働いているのだろうな、と感じる。

テレビの向こうに映るその人生を観ながら、「私にはムリ」と思ってしまうが、かくいう自分にだって、どんな使命があるか分からないのだ。
そんな時、人は理屈抜きの感情、魂の叫びに知らぬ間に導かれているのだろう

5月に入ってから、なぜだか「南大東島」を取材した番組を観た。それも、3回もだ!

南大東島は、那覇から400kmのところにあり、船で15時間、飛行機なら1時間で行ける島だ。
メイン産業はさとうきびで、島のほとんどがさとうきび畑だ。

この島は1900年代に八丈島からの開拓団により開拓されていて、歴史も浅い。
那覇から行くにも便利とは言い難いからこそ、観光客も少なく、島独自の歴史と文化が守られているのだろう。

テレビで見る限り、偶然とはいえ、3回も島のことを見るというのもフシギだ。
なんだか、呼ばれている!?と思ってしまう。

今のところ、未定ではあるが、本当に縁があれば行くことになるかもしれない。
さてさて、どうなりますやら!?

今年はラニーニャ現象かも?ということで、気象庁が経緯を見守っているそうだ。
ラニーニャ現象とは、赤道付近の海水温が下がることを言う。
すると、日本の夏は暑くなる、いや、猛暑になるそうだ。

確か、昨年はエルニーニョ現象(赤道付近の海水温が上がる)で、夏は暑かった、と記憶しているが…。
エルニーニョになろうが、ラニーニャになろうが、結局のところ夏は暑い、ということだ。

暑いだけならまだしも、ここ数年は熱波による干ばつ、大型台風、竜巻、水害…等々。
人間の予想を遥かに越える自然現象が次々と起きている。

そもそも、人間が自然現象を掌握した気でいること自体が間違いなのだ。
自然は、地球は42億年という月日を紡いでいるのだ。
たかだが数千年の歴史しかない人間の考えることなんて、たかが知れている、というものだ。

ラニーニャだろうか、エルニーニョであろうが、その大自然の中で私達が生かされていることを、悟るべきだ

平和ボケした日本では、以前より周囲に気を配る人が少なくなったように感じる。
その代表格が「ながらスマホ」だ。

歩きスマホをしている人を見ると、よくボタンを押せるな~と、逆に感心する。
手ぶれしてうまく押せないのじゃないか?とも思うし、視線がスマホにくぎ付けになるから、思わぬケガや事故だって起きやすい。
乳母車を押しながらスマホに見入るママ達を見ると、ギョッとする。

道の真ん中で井戸端会議に興じる人達、歩きタバコをする人、自転車専用道路に駐車する人、スーパーの狭い通路で並んでくっちゃべりながら買い物する人、ベビーカーで発車間際の電車に飛び乗るママ…数え上げればキリがない。

今日も、スーパーの入り口で3人家族があれこれ話始め、店に入る人が並んでいるのに気にも留めずにいた。
「あの、ここお店の入り口ですから、話すなら、違うところで…」と言うと、「あ!」と言いながらよける家族。
言われて初めて自分達が入り口をふさいでいることに気付いた様子。

これも悪気はないが、まさに周囲を気にしていない典型だ。
大抵の人は文句言わずやり過ごすが、適正な文句、苦情は言うべきだな、と思う。
気付かない人は、悪気なく気付かないのだ。

「悪気のないのが一番タチが悪い」
最近の傾向だ

来週行われる伊勢・志摩サミットの影響で、都内も警備が厳重になっている。

殊に、アメリカ大使館の周辺は物々しい雰囲気で、半径1キロ以内ほどは警官が要所要所に立っている。
その姿を目にすると、こちらまで緊張感が伝わってくる。

今日は、大使館にお偉いさんが来るせいなのか?交差点の角々にいる警官を目にすると、このサミットの影響力の深さを思わされる。

サミットの後には、オバマ大統領が広島を訪問する影響もあって、アメリカ大使館付近は厳重警戒区域になっているのだろう。

私が住む下町も、いつにも増して警邏の印象が深い。
駅には、民間のガードマンまで配する厳重ぶりだ。

だが、下町の警官からは緊張感を見いだせなかった。
制服のズボンからはみ出たお肉、自転車に乗って同僚と談義しながらの警邏は、ただの徘徊だ。
おいおい、もっと緊張感持って警邏しろよ!

いずれにしても、サミットも広島訪問も、何事もなく無事に終わって、各国関係者の方がお帰りになることを祈るばかりだ

都知事の舛添さんのお金の使い方や勤務状況が、公私混同で問題になっている。

都知事に限らず、企業のお偉いさんも、政治家も、官僚も…多くの人達が公私混同していると思う。
なのに、なぜ舛添さんだけが叩かれるのか?
中央省庁の意向に沿おうとせず、我が物顔で己の道を邁進する、手に負えないオッサンを駆逐するためだろう。

この世代の人達って、というか、人間は上の地位に着くと、なぜか世の中のすべてを手中に治めたと勘違いする。だから、仕事もプライベートもごっちゃになって、やるべきことだけをやれば後は好き放題、ということになるのだろう。

確かに、会社で何十年も勤めれば、生きやすい人間関係も構築出来るし、上司という立場を利用して、多少の融通も利く。すると、すべてが自分中心に動いているように勘違いするのだ。
これが破たんへの道筋となり、気付いた時には、もう後戻り出来ない、というわけだ。

公私混同していないお偉いさん達が、日本にはどれほどいるだろうか?

私が住む街の駅近で再開発が始まった。
駅の周辺はすでに都会化しているが、そこから500メートルほど先は住宅街だ。
今回は、そのエリアがターゲットとなり、みるみる近隣の家々が買収された。

その中で聞いた話として、再開発になると分かっていて家を建て替えた、というものだ。
この場所以外にも、以前再開発になった場所でも同じ現象があった。

再開発になると分かっていて、なぜ家を建て替えるのか?
それは、立退料を吊り上げるためだ。

え?そんなことあるの?と思ったが、関係者から聞いた話だから、間違いないだろう。
同じ土地面積であっても、家が古ければそれだけ立退き額は減り、新しい物件ならそれは圧倒的に跳ね上がるそうだ。

は~~、そこまでやりますか…というのが呆れた感想だ。
確かに、立退料が上がるほうが良いのは人情だが、そのために家を建て替え、真の意味でその役目を果たすことなく壊してしまうなんて。
家という命に対して失礼極まりない!と思うのは私だけだろうか…。

その卑しさが、裏目に出る日は必ず来るのだが…

人の行いとして、親切を尽くす、というのがある。
さらに、それを他人に言わず、黙ってする、というのは美徳でさえある。
それは人として良い行いなわけで、誰もがそんな心掛けでいることは大切なことだ。

だが、それが時には裏目に出ることがある。
親切に慣れて、その好意に甘えまくる人達は、自ら動こうとしない。
挙句の果てに、悪気もなく他人の親切、好意に気付くこともないのだ。

親切は気付いてもらうためにすることではないが、陰で黙って美徳を積む人がいる一方で、図々しい人間を養成?している現実がある。

私は、自分でするべきことをしない人には、「これはあなたのよね、自分でちゃんとやろうね」と言ってやらせる。
大概の人は、「すみません、やります」と素直に受け入れてくれる。
それで逆切れするようなら、説教大会が始まるが、幸いにも?言われればちゃんとやるのだ。
だったら、言われる前にやろう!と言いたい。

人の親切は当たり前ではないし、それに慣れることは人としていかがなものかと?
人を甘やかしすぎず、真の意味での親切心を持ちたいものだ

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