前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

2016年08月

仕事において誠実な会社は、時に損をすることがある。
会社はボランティアではないから、売り上げがなければ潰れてしまう。
どんなに良い仕事をしても、それが売り上げに直結しないと、話にならない。

少しでも会社の利益を上げるためには、発注者の要望を最大限叶える努力はしつつも、その経費は最小限に抑えなければならない。
特に、ライバル会社がある時にはなおさらだ。

発注する側は、少しでも安くてクオリティの高い商品を求める。
そのためにも、該当企業から聞き取り調査をし、アイミツを取り、どこが最善かを検討する。

その中には、想像以上に安い値段を出してくるところがある。
そのクオリティが良ければ言うことないが、その先の先までを見据えて、今回は売上がなくてもそれを取りにくる。
そうすれば、それが次に繋がることが分かっているからだ。

そうなると、誠実にまっとうな金額を提示した会社はバカを見ることになる。
どんなにクオリティが高くても、ずる賢い?会社には太刀打ち出来ない、ということになる。

日本は資本主義だから、法律に触れなければ、やり方次第ではいかようにも手は打てる。
だが、あまり欲をかき過ぎると、元も子もなくなることもあるのだが…

自分より境遇に恵まれない人を見ると、たいがい「かわいそうに」と言うことがある。

例えば、後進国と呼ばれる国で食べるものがなく、幼い命が奪われているといったCMで、瞳のキレイな子供がテレビに映った時、戦争や紛争で逃げ惑う人達を見た時、親に虐待された子供のニュースを耳にした時、24時間テレビで障害を抱えながらも懸命にがんばっている!といった類の映像を観た時…人は、「かわいそうに」という思いが湧くし、口にもする。

その尺度は、「自分と比べると、あなたはかわいそうな人」ということだ。
現実問題、己の意思とは裏腹に理不尽な思いを強いられている人がいる。
そんな人には、何としてでも助かって欲しい、と願う気持ちにはなるが、それを「かわいそう」というのは、そう思う側の傲りのような気がする。

人間は、この世には己の修行を成すために生まれてきているのだから、今ある環境や境遇といかに向き合い、物事を好転させるか?それは、自身の課題なのだ。

その延長戦に助けて欲しい、手を貸して欲しいと請われた時に、初めて周囲が手を差し伸べるのが同等の関係のように思う。
もちろん、子供や老人のように、自らSOSを発することが出来ない存在には、こちらからアプローチする必要があるが、基本はどんな境遇の人とも同じ目線でいることが大切だ。

また、世の中には不幸でいることを良しとする人だっている。
病気がちで、それを愚痴ることに満足している人、家族に不出来な者がいても、それを愚痴の材料とし、好転させる気のない人、己の無能さを棚に上げて努力しようとしない人…等々。
そういう人は、そこに居心地の良さを感じているのだから、あえて手を差し伸べる必要はないと感じる。
必要があれば、そういう人達は必ずアプローチしてくるからだ。

健常者だろうが、障害者だろうが、弱者であろうが、金持ち、貧乏人であろうが、基本のスタンスは皆同じなのだ。
どんな境遇にいるかは、生まれる前に自分で選んだものだ。

自分に課せられた使命を果たしつつ、周囲とは同じ目線で精進していきたいと思う

日テレの「24時間テレビ―愛は地球を救う―」は、今年で39回目、来年は40年となる。

高校生の頃、芸能人会いたさに武道館に貯金箱を持参したことがある。
チャリティだの、ボランティアだのといった敬虔な気持ちではなく、好きな芸能人が見れる!という下心からの行動だった。

あれからン十年。番組の形態はあまり変わらず、最近は障害者の人を前面に押し出し、お涙ちょうだいの形相が何だか鼻につくようになってきた。

世の中には健常者と言われる人と、障害者と言われる人がいる。
身体の一部が不自由だと障害者という括りにしているが、そもそもそれ自体が大きな差別だ。

障害者の人が困難に立ち向かい、自分に勝つ姿を見て涙する、これって健常者だって同じだ。
どんな立場でも、誰にだって困難はあるし、見えない敵と闘っている毎日だ。

番組を通じて集まった善意?の募金は、見える形で役に立つのだろう。
だが、そもそもそんなテレビで多くの売れっ子芸能人を使い、障害者を前面に押し出し、100キロ以上のマラソンを見せることでしかお金が集まらないという図式は何だかな~?という気がする。
また、それに乗っかるスポンサーという名の企業って…?イメージ戦略が見え見えだ。

感動は、無理やり作り出すものだろうか?
お涙ちょうだいになることを前提に作る番組って…?

う~~~ん、年々違和感を覚えざるを得ない

30~40代はジャズダンス、モダンバレエをやっていた。
その後、仕事の都合でダンスを辞めたが、40代後半から縁あってフラダンスを始めた。

サークル活動のため、教室のようにガツガツしたレッスンではなく、どちらかというと楽しんで、いわゆるボケ防止のためにやっている、という側面もある。

子供の頃なら、感性が先に立ち、計算なしでも踊れるが、大人になると頭が理解出来ないと踊れない。
まずは、脳みそが音と振りと動きを理解しないと前へ進めないのだ。

今、新曲を2曲覚えているが、最初に付いた振りが途中で変わると、年配者は右往左往する。
一度身に付いた動きを変えるのは、大変なことだ。
それでも、一生懸命脳みそに指令を出すと、徐々に身体が言うことを聞くようになるからフシギだ。

身体の自由が利かなくなってからでは遅い。
ボケ防止、身体を健康に保つためにも、若いうちから多くの刺激を受けながら、新しいことを学ぶことは、未来の自分のためだ。

老いて不自由な身体を悔いながら、「何で自分はこうなんだろう?」と嘆きたくはないものだ

波に乗る!「三線編」3のつづき。

今宵、友達の紹介で、沖縄好き、しかも!三線を弾ける方(女性)を紹介いただき、3人で三線が弾ける沖縄料理屋に行った。

お店に入ると、沖縄情緒たっぷりで、すぐさまウチナンチュの気分に浸れる(と勝手にそう思い込んでる(笑))。
沖縄民謡はやっぱり琴線に触れるのだ。なぜだか安心するし、懐かしい気がしてならない。

そんな空間で、三線を弾ける彼女が、乾杯もそこそこに、さっそく三線を片手に何曲も唄ってくれた。
三線の音色は穏やかで、少しの気負いもなく、歌声はのびやかでしなやか。

耳にした瞬間、すご~~~い!!!と、感激しまくり。
お店のオーナーも、そこにいたお客さんも、誰もが絶賛したほどだ。

こんなふうに心を込めて、自分の思いを乗せて弾き謳えたらどんなに気持ち良いだろうと思ったし、それが人の心を揺り動かすのだから、やっぱり三線、沖縄民謡はスゴイな~と思わされた。

彼女は八重山民謡を専門としている。
その旋律はどこかはかなげだが、もっとも心の奥深いところまで届く気がした。
人々の情や願いが、メロディに託されているのだな…と感じた。

今宵、新たな出会いを得て、次はどこへ向かうのか?
自分に合うものは何なのか?しっかり見聞きし、心で感じたいと思う

人生も時を重ねると、捨てられないものが増え、家の中はモノだらけ、なんてことはないだろうか?
若い時に買った服をいつかは着れるかも…と思ってみたり、これは大切な人からいただいたものだし、これはあの時の記念品だし…と、数えあげればキリがない。

モノもそうだが、経験値が増すと、学習能力から導き出される好き嫌いもある。
好き嫌いも淘汰されると、偏ったものの考え方にも繋がりがちだ。
好みは大事だが、ニュートラルな考え方をしていないと、いつの間にか偏屈な人間になってしまう。

そう考えると、人生は引き算が大切だな、と思わされる。
余計なモノは溜め込まない。使わないモノは何がしかの処分をする。
そうやって、気持ちのうえで区切りをつけていかないと、どんどんモノは溜まるばかりだ。

逆に、スキルや能力は足し算だな、と感じる。
努力を怠ると、アッと言う間に社会から掃き出されてしまう。

会社にいると、ついつい守りに入りがちだが、己のスキルは自分でしか磨けない。
そこは惜しみなく、足し算で増やしていくことが大切だ。

人生は足し算と引き算で成り立っている。
何を足し、何を引くのか、その塩梅を間違わないようにしたいものだ

人間関係や仕事等において、その間柄が親しくなると、徐々に馴れ合いになってくる。
それは良い面もあるが、時に残念な結果を招くことがある。

特に利害が絡む場合、信頼関係を構築するまでは細心の注意を払い、相手の警戒心を解けるよう気を配る。
些細な事柄にも敏感に反応し、少しでも相手の希望を叶えようと、最大限の努力を惜しまない。

その甲斐あって先方の扉も開きだす。
では、一緒に仕事をしましょう!という雰囲気になると、気が緩むのか?思わぬ失態を犯してしまうことがある。

信頼関係を築くまでは必死だったが、信用してもらったら安心したのか?それがゴールと思ったのか?はたまた高を括りすぎたのか?それまでの努力が水泡に帰してしまうなんて、あ~~もったいない!としか言いようがない。

結果的に信頼を失った側は後悔の念ひとしおだろうが、裏切られた側もショックだ。
それもこれも、高を括った甘え心が招いた結果なのだが…

高畑さん家の長男が強姦致傷容疑で逮捕された。
報道を目にした時は、ウソでしょ?と思った。

母親との仲良さげな姿には笑えたし、出来の悪い息子を母親が必死で守ってきたんだな、というのがありありと見え、母の愛とは、まさに盲目だな…と思えるほどだった。

そこまでならただの親子愛なのだろうが、良いのか悪いのか?この親子は、あまりにも自分の感情に素直過ぎる。
母も息子も、異性に対する思いも正直で、思い込んだら一直線!なのだ。

母は女手ひとつで二人の子供を育てたことからも、己の欲望に従順なことが分かる。
それでも、人としての責務を果たしているのだから、立派だ。

息子も、そんな母の遺伝子を引き継いでいる。
男がゆえに、その衝動を抑えられなかったのだろう。何とも遺伝子の成せる業は恐ろしい。

この親子に共通する、素直で正直な感情は、ある意味ピュアだが、反面恐ろしさを秘めている。
己のピュアさが己を滅ぼすことにもなる。

社会に対している時は、己を俯瞰する目を持たねばならないのだ。
冷静なもう一人の自分がいれば、こういうことは起きにくいのかもしれない

独身男性4割「ずっと独身でいいよ!」との記事を読んだ。

独身男性の4割が、生涯独身でも構わない、と思っているというものだ。
理由は簡単、自分の稼ぎは自分だけのために使いたい、というのが第1位とのこと。

現代は女房、子供を養うには、かなりの収入がないと自信も湧かないだろうし、たとえ共働きだとしても、一生続く苦労を思うと気が滅入る、というのは頷ける。

何せ、子供を育てるまでにかかるお金は、3000万円と言われている。
3000万円あれば、家が買える。
子供の成長と、家を天秤にかけるのはそもそも有り得ないし、子育てにはそれだけの価値がある、という見方をすれば前向きだが、現実問題お金がなければ、子供は育てられないのだ。

そのためには、自分のしたいことや、独身時代のような自由奔放な生き方は出来ない。
恐らく、そのほとんどを我慢しなければならなくなるだろう。
自分も親にそんな思いをさせながら大きくしてもらっているにも関わらず、それと同じことをしたい、とは思わない、ということだ。

その思いは、独身男性だけではない。女性だってそう思っているのが現実だ。
子育てを楽しめれば良いが、共働きで仕事、子育て、家事+介護なんてことになったら…。
想像するだけで遠慮申し上げたい、というのが本音だろう。

独身男性が思うことは、独身女性も同じ、ということだ

首都圏では台風の影響で、朝夕の通勤に支障が出た。
会社に着いてからは、ずっと激しい雨が吹き荒れ、分厚いビルの窓に叩きつけるその音が聞こえるほどだった。

昼頃になると、空が明るくなった。どうやら、台風の目に入ったようだ。
雨雲レーダーで見ても、台風の目には雲がない。

目を中心にして、巨大な雨雲が渦を巻いている。
目は、積乱雲が渦を巻き始め、そこに風が吹き続けると、気圧と遠心力の力で次第に雲が巻き込まれ、大きな渦となり、台風になるそうだ。
ちなみに、北半球は半時計周り、南半球は時計回りに渦を生成する。

台風の目は人間にも置き換えられる。
求心力のある人の所には人が集まる。それが、良い働きをするものであれば誰もがハッピーだが、時に真逆を行き、他人を不幸にする人もいる。

誰もが他人を不幸にしようなんて思っていないだろうが、気付いたらそうなっているのが台風の目だ。
自らの在り方はどちらだろう?せめて、害のない目でありたいものだ

シン・ゴジラを観た。
怪獣物には興味なかったが、周囲の評判の良さに触手が動いた。

確かに、世間の評判通り、大人も楽しめる内容だった。
ゴジラの存在が私達人類に問いかけるものは?
ゴジラが出現した時の政治家達の対応ブリは笑えるし、「かの国」の対応や、戦後ずっとその属国であることをあんに匂わすあたり、「ヤルナ!」とさえ感じた。
防衛省、自衛隊の全面協力も見どころだし、知っている街がリアルにゴジラに潰されていくのも圧巻だった。

実際、本当にこんなことが起きたら、都心に住む者は生きてはいられないだろう。
フィクションと分かっていても、もしかしたら現実にならないとは言い切れないな…とも思わされた。

熱帯化しつつある日本に、今までは生息していなかった生物が次々と発見されていることを思うと、ゴジラではなくとも、他の巨大生物が現われ、街を破壊する可能性だって無きにしもあらずだ。

シン・ゴジラにおいて、その存在は、私達人類が臭い物にフタをした結果の産物だ。
人類は、そんなバカげたことを数えきれないほどしでかしている。
これらからの報復を思うと、空恐ろしいとさえ感じる。

人類も地球に住む生物の一種だ。人類だけが我が物顔でいること自体が、やはり大きな間違いなのだ。
シン・ゴジラからの警鐘を、ただ「面白かった~!」だけで括ってはいけないと思わされた

波に乗る!「三線編」2のつづき

銀座のわしたショップで行われた三線体験レッスンに行ってきた。
12人の参加者のうち11人が女性だった。女性率高!三線は、女性の心を鷲掴み?にしているようだ。

三線に触れるのは生れて初めての私。
持ち方から、楽譜の見方等、講師が分かりやすく説明してくれた。

楽譜の読み方が分かり、弦の名前や押さえ方、弾き方なども一通りやった後、「てぃんさぐぬの花」を楽譜に沿って稽古した。
40分間の稽古だったが、最後は歌いながら弾けた。といっても、超ヘタだが…(笑)。

いつも、ウォークマンで聞く艶やかな音色とは程遠かった。
始めた日から上手く弾けないのは当然なわけで、あまりのヘタクソ加減にビックリ!したが、弾いていて楽しい!と感じた。

何回か練習するうちに、徐々に楽譜を見なくても弾ける箇所も増えてきた。
フッとした瞬間に、無心になっていたようで、気付くと弾けていて、それがとても心地良かった。

頭であれこれ考えながら弾き始め、そのうち、心で弾けるようになるのが三線なのだな…と思わされた。
そして、それは私の前世にあったものだ…と、改めて実感させられた出来事だった

退社後、会社近くの車道で、何かうごめくものがいた。目を凝らしてみると、それは鳩だった。
どうやら、車に轢かれたらしく、身体の一部が道路にくっついたのか、折れたのかは定かではないが、動く部位をバタつかせていた。

車道だから、車はどんどんやってくる。
鳩の動きに気付いた車は轢かないように徐行するが、何せ道のど真ん中にいるから、よけるにも慎重だ。
あまりにもグロイ光景に、それ以上見ることは出来なかった。

人間だって他の生き物をむやみやたらに傷付けたいとは思わない。
だが、不可抗力で生き物を殺めてしまうこともある。今日見た鳩は、まさにそれだ。

それに、最近の鳩は危機感?がない。車が来ようと逃げる気配もない。
人がよけてくれると、高を括っているのだろうか?

その姿は、人間にも当てはまる。ことに日本人は平和ボケして、危機意識が薄い。
日本にも犯罪はあるが、外国の比ではない。

外国人が日本に来ると安全、安心だ、と誰もが口を揃えて言う。
落とした財布は必ず戻ってくる平和な国だと。

それはそれで良いことだが、あまりにもそれに胡坐をかいていると、思わぬところで足元をすくわれることもある。
平和に感謝しつつも、横柄、横着な心にだけはならないよう、自戒したいものだ

職場に、恐ろしく仕事が出来ない、いや、やる気がなく、ミスは他人のせいにし、ミスしたことさえ素直に認めず、やりたくない仕事はやらない人がいる。

それでも本人は、「私、チョー仕事してます!」オーラだけは全開で、一人でバタバタ走り回っている。
だが走り回っているだけで、まったく仕事は捗らないどころか、自分の担当でさえ放置する始末だ。

周りが催促すると、ようやく手は付けるが、そもそもやる気がないから、何とか他人にやってもらえるよう画策する。
仕事はしないくせに、する振りだけしてムダに残業もする。そう!残業代だけはせしめていく、というわけだ。

すでに人生半世紀以上生きている人だが、こんなことを他の職場でもずーっと続けてきたのだろう。
あまりの使えなさに周りが諦め、自分に仕事が回ってこないようにしている、としか思えない。

これらのことを注意しても、「はい!はい!分かりました!はい!はい!」と、空返事ばかりを繰り返し、まったくもって「暖簾に腕押し」だ。

いかに楽をして残業代をせしめるか、ミスしても知らん顔、難しい仕事はやらないで済むように立ち回る。
注意されたら、とりあえずその場をやり過ごし、挙句の果てに逆切れし、自分を正当化する。

ここまでくると、マジで相手にする気力さえ湧かない。そう思うこと自体、相手の思うツボなのだが…。
だが、面白いのは、どんなに自分を正当化しようと画策しても、そもそもの思考回路が単純だから、その画策には必ず穴が空いている。

それを周りは失笑しているのだが、おめでたいことに本人はそんなこととは露知らず…気付かないフリしてるだけかもしれないけど…。

ある意味幸せな人ではあるが、愚かな人間とは自分の愚かさに気付けないものなのだな、と気付かされる。
「人の振り見て我が振り直せ」だ

ランチ時に、エスニック店に行った。
夜は高級店のため、昼間のランチなら手の出る店だ。
店としては規模も大きく、夜はお酒も楽しめる、大人の店だった、ちょっと前までは…。

久しぶりに行ったら、子連れのママゴン達が多く、まるでファミレスだ。
なんだかな~~~、この店も堕ちたな~というのが正直な感想。

本格エスニックで、味も良いのだが、大人が楽しむ店で、子供が騒ぎ放題。
ママゴン達は一応注意はするものの、長居するから子供は飽きて、泣き叫ぶ、飛び跳ねる…。

親達は毎日その子らと接しているから平気なのだろうが、赤の他人にしてみれば良い迷惑だ。
せっかくの休日を、しかも大人の空間に泣き叫ぶ子供がいることは、ご法度だと思うのだが…。

最近は、飲み屋にも子供連れが多い。
お酒や刺激物は、決して子供に良い影響とは思えないが、大人が我慢出来ないのだ。
意味もなく我慢しろ、とは言わないが、せめて子供を誰かに預けるとか、何がしかの方法はあるはずだ。

子供の空間に、まったく空気の違う大人がいたら場違いなのと同様に、大人の空間に子供がいることに違和感を覚える。

今後は、禁煙、分煙、子連れ、という括りに分けざるを得ないのかもしれない

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