2017年07月
2017年07月15日
エピソード2-2:親子逆転2
両親の価値観として、”家の大黒柱=世帯主=お金を稼いでくる人”が、家では絶対だ、というものがある。
ある時、選挙のお知らせが届いた。そこに書かれていた世帯主は、私の名前だった。
それを見た父は、自分と母が私の扶養者になった、ということを悟ったらしく、「選挙通知が来てるから、俺の分の選挙用紙をくれ!」と言った。
「中開けていいよ」と言うと、「世帯主が開けないのに、俺が開けられない」と言った。
私が子供の頃、私宛に来た手紙を勝手に読んでいたくせに、この変わり様には驚かされた。
それから事あるごとに、「世帯主はお前だからお前が何でも決めろ」と言うのだ。
それには驚かされたが、もう自分が世帯主ではないことに、父も少しの寂しさを感じていたのかもしれない、とも思わされた出来事だった。
ある時、選挙のお知らせが届いた。そこに書かれていた世帯主は、私の名前だった。
それを見た父は、自分と母が私の扶養者になった、ということを悟ったらしく、「選挙通知が来てるから、俺の分の選挙用紙をくれ!」と言った。
「中開けていいよ」と言うと、「世帯主が開けないのに、俺が開けられない」と言った。
私が子供の頃、私宛に来た手紙を勝手に読んでいたくせに、この変わり様には驚かされた。
それから事あるごとに、「世帯主はお前だからお前が何でも決めろ」と言うのだ。
それには驚かされたが、もう自分が世帯主ではないことに、父も少しの寂しさを感じていたのかもしれない、とも思わされた出来事だった。
2017年07月13日
エピソード2-1:親子逆転1
再同居を始めて1年くらいは、親子関係が逆転するための期間だったためか?しょっちゅう、ぶつかり合っていた。
親はいつまでも「親」という上から目線思考が抜けず、私は既に衰えた親に対して「いいかげんにしてくれよ~」と思うことの連続で、つい反発する。
日々の生活の中で、互いに協力し合えることはするのだが、どちらかに過重がかかり過ぎると、遠慮なくキレる。
そんなことを繰り返しながら、何かを頼むにも、タイミングと体調を見計らうようになった。
が、親のほうは相変わらずマイペースで、こちらがどんなに忙しくても、己の言い分を優先させようとする。
それが続くと、さすがの私もプッチーン!とキレる。
「いいかげんにしてよ!」と言うと、「こっちだって我慢してるよ!」と逆切れされる。
それにまたカーッと頭に血が上るが、ちょっと時間が経つと、親も私が思うより以上に遠慮したり、時を見計らったりしているのかも?と気付かされた。
相手の心情を慮ることの究極の難しさは、身内であり、親なのかもしれない。
親はいつまでも「親」という上から目線思考が抜けず、私は既に衰えた親に対して「いいかげんにしてくれよ~」と思うことの連続で、つい反発する。
日々の生活の中で、互いに協力し合えることはするのだが、どちらかに過重がかかり過ぎると、遠慮なくキレる。
そんなことを繰り返しながら、何かを頼むにも、タイミングと体調を見計らうようになった。
が、親のほうは相変わらずマイペースで、こちらがどんなに忙しくても、己の言い分を優先させようとする。
それが続くと、さすがの私もプッチーン!とキレる。
「いいかげんにしてよ!」と言うと、「こっちだって我慢してるよ!」と逆切れされる。
それにまたカーッと頭に血が上るが、ちょっと時間が経つと、親も私が思うより以上に遠慮したり、時を見計らったりしているのかも?と気付かされた。
相手の心情を慮ることの究極の難しさは、身内であり、親なのかもしれない。
2017年07月12日
エピソード1-10:最初の課題
生まれた時から、ずっと一緒に暮らした間柄なのに、一番お互いを理解し合えてないのが家族かもしれない。
育ててくれた親の価値観は、子供にとって100%であり、絶対だ。
だが、そこに疑問を感じてしまったら、今までのような信頼関係を持続することは難しい。
子供が感じた違和感は、そのまま親にも伝わる。
親も「なぜこの子は私達の言うことを聞かず、背くのだろうか…」と、胸を痛めることもあったかもしれない。
だが、親は長年生きて来た誇りと経験値があるから、なかなか自分を変えることは出来にくい。
私が親と暮らし始め、それらの事に気付いた時に決めたことは、
①親の意思を尊重する
②老齢で出来ないことや、粗相が増えても怒らない
これを、事あるごとに自分に言い聞かせていた。
とは言え、そう簡単にはいかないのが親子だ。
エピソード2からは、ままならない毎日の中で起きた悲喜こもごもを綴っていく。
育ててくれた親の価値観は、子供にとって100%であり、絶対だ。
だが、そこに疑問を感じてしまったら、今までのような信頼関係を持続することは難しい。
子供が感じた違和感は、そのまま親にも伝わる。
親も「なぜこの子は私達の言うことを聞かず、背くのだろうか…」と、胸を痛めることもあったかもしれない。
だが、親は長年生きて来た誇りと経験値があるから、なかなか自分を変えることは出来にくい。
私が親と暮らし始め、それらの事に気付いた時に決めたことは、
①親の意思を尊重する
②老齢で出来ないことや、粗相が増えても怒らない
これを、事あるごとに自分に言い聞かせていた。
とは言え、そう簡単にはいかないのが親子だ。
エピソード2からは、ままならない毎日の中で起きた悲喜こもごもを綴っていく。
2017年07月11日
エピソード1-9:相容れぬ感情9
両親の価値観は、生まれた時代とその環境が大きく影響していることは明白だ。
戦争を体験した過去は、能天気に生きている私には想像だにしない、あまりにも多くの艱難辛苦があったのだ。
戦争に行き戦った父も多くは語らないが、今日生きるか、明日死ぬのか、といった危機迫る毎日を数年間も過ごしていれば、どんなにまともな人でも精神が病むことは必至だろう。
戦争には行かずとも、食べるものがなく栄養不足で幼い妹弟達が死に、それを見送るばかりでは、自分が生きていることさえも贅沢に思え、罪悪感を覚えてしまうのかもしれない。
そんな苦境を乗り越え生きて来た両親が、偏った思考に陥ることを責めることは出来ない。
と、頭では理解出来ても、生まれてから何十年も、偏った思考が正しいのだと教えこまれて来たから、自分がおかしいのは両親のせいだと恨み節をつぶやきたくなるのだ。
このままでは自分の思考も変えられないし、両親を恨むようになっていく。
これではいかん!ということで、両親と離れることを選択した。
一人になると、未開の事柄や人達と出会い、多くの価値観に触れることで、自分のそれがおかしいことに気付かされたし、そう言ってくれる人もいた。
両親もある意味、時代の犠牲者だ。だが、本能としておかしいものはおかしい!と感じることは、やはり大切なのだ。
相容れぬ感情を今後どういう方向に進めるのか?それが、最初の課題となった。
戦争を体験した過去は、能天気に生きている私には想像だにしない、あまりにも多くの艱難辛苦があったのだ。
戦争に行き戦った父も多くは語らないが、今日生きるか、明日死ぬのか、といった危機迫る毎日を数年間も過ごしていれば、どんなにまともな人でも精神が病むことは必至だろう。
戦争には行かずとも、食べるものがなく栄養不足で幼い妹弟達が死に、それを見送るばかりでは、自分が生きていることさえも贅沢に思え、罪悪感を覚えてしまうのかもしれない。
そんな苦境を乗り越え生きて来た両親が、偏った思考に陥ることを責めることは出来ない。
と、頭では理解出来ても、生まれてから何十年も、偏った思考が正しいのだと教えこまれて来たから、自分がおかしいのは両親のせいだと恨み節をつぶやきたくなるのだ。
このままでは自分の思考も変えられないし、両親を恨むようになっていく。
これではいかん!ということで、両親と離れることを選択した。
一人になると、未開の事柄や人達と出会い、多くの価値観に触れることで、自分のそれがおかしいことに気付かされたし、そう言ってくれる人もいた。
両親もある意味、時代の犠牲者だ。だが、本能としておかしいものはおかしい!と感じることは、やはり大切なのだ。
相容れぬ感情を今後どういう方向に進めるのか?それが、最初の課題となった。
2017年07月10日
エピソード1-8:相容れぬ感情8
両親共に戦争を体験し、決して裕福とは言えない幼少期を過ごしたせいか、贅沢を敵視する傾向にあった。
お金がなければ遊ぶことも、外食や旅行も難しいというのは分かるが、それが原因で全ての贅沢を排斥するのは違う、と私は子供の頃から思っていた。
大人になり仕事をしてお金を手にするようになると、確かに贅沢は出来ないな、とは思ったが、だからといって、ケチケチした生活をするのはやっぱり違う、時にはプチ贅沢で心が潤うことを思うと、工夫次第でこれまで贅沢だと思っていたことも出来るのではないか?と考えるようになった。
日常は節約出来るところはとことん節約し、その分したいことのためにお金を貯めておく。
そして、ここぞという時に、自分にとってのご褒美にドーン!と支出するのだ。
そんな私の生き方を両親はやはり否定した。
ことあるごとに「貧乏人がそんな贅沢して!」と言うのだ。
「そんなことばかり言ってるから、ずっと貧乏なんだよ!貧乏を脱するには工夫が必要なの!」と、私は抵抗した。
自分で実践し体験した事柄は、時間の経過と共に良い方向に進んだ。
貧乏から脱するのは自分次第!なのだ。
お金がなければ遊ぶことも、外食や旅行も難しいというのは分かるが、それが原因で全ての贅沢を排斥するのは違う、と私は子供の頃から思っていた。
大人になり仕事をしてお金を手にするようになると、確かに贅沢は出来ないな、とは思ったが、だからといって、ケチケチした生活をするのはやっぱり違う、時にはプチ贅沢で心が潤うことを思うと、工夫次第でこれまで贅沢だと思っていたことも出来るのではないか?と考えるようになった。
日常は節約出来るところはとことん節約し、その分したいことのためにお金を貯めておく。
そして、ここぞという時に、自分にとってのご褒美にドーン!と支出するのだ。
そんな私の生き方を両親はやはり否定した。
ことあるごとに「貧乏人がそんな贅沢して!」と言うのだ。
「そんなことばかり言ってるから、ずっと貧乏なんだよ!貧乏を脱するには工夫が必要なの!」と、私は抵抗した。
自分で実践し体験した事柄は、時間の経過と共に良い方向に進んだ。
貧乏から脱するのは自分次第!なのだ。
2017年07月09日
エピソード1-7:相容れぬ感情7
母には5人の姉妹弟がいたが、そのうち3人は夭逝し、父の違う姉は精神に問題があり、唯一成人した妹も30代で逝ってしまい、今は母だけが健康で長生きしている。
幼い頃から母は姉妹弟達の面倒を看続け、大人になったら親の面倒を看ることになった。
そういった不遇が母の思考を歪め、愛する身内を失いたくない一心が、子供への過剰過ぎる愛情へと移行したように推察される。
そんな母が父との折り合いも悪く、誰も自分を守ってくれない、という寂しさを思うと、私も母を置き去りにして家を出ることが出来なかったのだ。
だが、そんな思いもいよいよ限界を迎えたのが30歳を過ぎた頃だった。
母を守らなければ、という思いが、逆に母の精神的自立を妨げているのだ、ということに気付いた。
怒り狂う母の悲しみに背を向け、敢えて私は家を出た。
それから10年間私は一人暮らしをし、それまで味わうことの出来なかった、普通の暮らしを手に入れたと同時に、両親の片寄った価値観に縛られていたことに気付かされた。
両親と距離を置いたこの時間が、親も子も共に一人の自立した人間に成長する時間となった。
幼い頃から母は姉妹弟達の面倒を看続け、大人になったら親の面倒を看ることになった。
そういった不遇が母の思考を歪め、愛する身内を失いたくない一心が、子供への過剰過ぎる愛情へと移行したように推察される。
そんな母が父との折り合いも悪く、誰も自分を守ってくれない、という寂しさを思うと、私も母を置き去りにして家を出ることが出来なかったのだ。
だが、そんな思いもいよいよ限界を迎えたのが30歳を過ぎた頃だった。
母を守らなければ、という思いが、逆に母の精神的自立を妨げているのだ、ということに気付いた。
怒り狂う母の悲しみに背を向け、敢えて私は家を出た。
それから10年間私は一人暮らしをし、それまで味わうことの出来なかった、普通の暮らしを手に入れたと同時に、両親の片寄った価値観に縛られていたことに気付かされた。
両親と距離を置いたこの時間が、親も子も共に一人の自立した人間に成長する時間となった。
2017年07月08日
エピソード1-6:相容れぬ感情6
母とはおおむね良好な関係を築いてきたように思う。
子供の頃は習い事をしたくても、経済的に余裕がなかったため、父はそれに反対するが、母は私の芽を伸ばすために尽力してくれた。
日々の生活をこなすだけが精いっぱいだと、それが原因で時に両親は喧嘩した。
そんな両親の言い争いを聞くのはイヤだった。
それでも、私の教育のために、母は苦労を重ねた。そのことには感謝している。
が、私が大人になって事あるごとに、「私が苦労したから、あんたは学校へ行けたり、習い事が出来たんだ」などと言われると、ありがたいと思っても、ウンザリする。
つまりは、自分の犠牲のうえに私の幸せがあるのだから、親に孝行を尽くすのは当たり前、という感情が透けて見えるのだ。
言われなくても、母には出来る限りのことをしたいと思っていた。
だが、それを面と向かって言われると、感情的には相容れられなくなるものだ。
そんな母の深すぎる愛情の呪縛により、私は30歳になるまで家を出ることが出来なかった。
子供の頃は習い事をしたくても、経済的に余裕がなかったため、父はそれに反対するが、母は私の芽を伸ばすために尽力してくれた。
日々の生活をこなすだけが精いっぱいだと、それが原因で時に両親は喧嘩した。
そんな両親の言い争いを聞くのはイヤだった。
それでも、私の教育のために、母は苦労を重ねた。そのことには感謝している。
が、私が大人になって事あるごとに、「私が苦労したから、あんたは学校へ行けたり、習い事が出来たんだ」などと言われると、ありがたいと思っても、ウンザリする。
つまりは、自分の犠牲のうえに私の幸せがあるのだから、親に孝行を尽くすのは当たり前、という感情が透けて見えるのだ。
言われなくても、母には出来る限りのことをしたいと思っていた。
だが、それを面と向かって言われると、感情的には相容れられなくなるものだ。
そんな母の深すぎる愛情の呪縛により、私は30歳になるまで家を出ることが出来なかった。
2017年07月07日
エピソード1-5:相容れぬ感情5
父は80歳の時に人工透析を始めた。
その原因は、味付けの濃いものを好んだからだ。
どんな料理にもドッポリ醤油をかける。
どんなに家族がそれを咎めても止めることはなく、透析治療をするようになっても、それは続いた。
人工透析をする人の大半は糖尿病からそうなるらしいが、父の場合は血圧が高いくらいで、あとはいたって健康体だった。が、濃い味を長年好んだことから腎臓機能が衰え、挙句の果てに透析治療をすることになったのだ。
この事柄ひとつを取っても、自己中心ぶりが窺える。
周囲がどんなに気を遣い、本人のためと思ってあれこれしても、当人にしてみれば要らぬ心配で、ますます頑なさは増し続けた。
人工透析を始めて1年も経たないうちに、食事制限などがあることに腹を立て、といっても全く制限など守らず、食べたい放題なうえに、とうとう治療拒否をし、通院しなくなった。
そんなことをすれば、老廃物が身体に溜まり、1か月もしないうちに肺に水が溜まり、虫の息状態で救急搬送された。しばらく入院して治療をすると元気になるが、するとまた同じことを繰り返すのだ。
そんなことが6年間続くわけだが、その話はまた追々に。
この話もまた、相容れぬ感情の入り口となるエピソードのひとつだ。
その原因は、味付けの濃いものを好んだからだ。
どんな料理にもドッポリ醤油をかける。
どんなに家族がそれを咎めても止めることはなく、透析治療をするようになっても、それは続いた。
人工透析をする人の大半は糖尿病からそうなるらしいが、父の場合は血圧が高いくらいで、あとはいたって健康体だった。が、濃い味を長年好んだことから腎臓機能が衰え、挙句の果てに透析治療をすることになったのだ。
この事柄ひとつを取っても、自己中心ぶりが窺える。
周囲がどんなに気を遣い、本人のためと思ってあれこれしても、当人にしてみれば要らぬ心配で、ますます頑なさは増し続けた。
人工透析を始めて1年も経たないうちに、食事制限などがあることに腹を立て、といっても全く制限など守らず、食べたい放題なうえに、とうとう治療拒否をし、通院しなくなった。
そんなことをすれば、老廃物が身体に溜まり、1か月もしないうちに肺に水が溜まり、虫の息状態で救急搬送された。しばらく入院して治療をすると元気になるが、するとまた同じことを繰り返すのだ。
そんなことが6年間続くわけだが、その話はまた追々に。
この話もまた、相容れぬ感情の入り口となるエピソードのひとつだ。
2017年07月06日
エピソード1-4:相容れぬ感情4
年金をもらえる歳になりながら、それが叶わなかった父は、小遣いがなくなると機嫌が悪くなった。
ああ、そろそろお金が無くなったんだ、と何とも分かりやすい態度のオンパレードで、まさに思い通りにならずダダをこねる3、4才児状態だった。
それでもなかなか「小遣いをくれ」とは言わなかった。そこは、男の意地なのか?父としての最後の砦なのか?は不明だが、そんなプライドなどとうの昔に朽ち果てているのだが、それでも威厳を保とうとするあたり、そこだけを切り取ってみれば、これが男気というものだろうか?とも思う。
いよいよ困り果てると、どこで覚えたのか?猫なで声で小遣いを所望するようになった。
一度に多くを渡すと、調子に乗ってすぐ使ってしまうので、2、3千円ずつ渡すようにした。
最初は、「たったこれだけか!」と、悪態をついていたが、私も徹底して所望するまでは渡さないようにした。
すると、徐々にそのありがたみが分かってきたのか?下出になってきたが、ある時「俺家を出ていくから10万円くれ!」と言い放った。
私としてみれば、「10万円で出てくれるなら、願ったり叶ったりだ!」と思い10万円を渡し、「じゃ、これで家を出てね」と言った。
すると、みるみる目の色が変わり、渡した10万円を私に投げつけたのだ。
自分が出ていくというから渡したのだが、どうやら本意ではなかったようだ。
もちろん、私だって10万円で家を出るなんてことが出来ないことくらい分かっている。
だが、そんな小細工的言い訳で10万円を所望するなんて…。
この後は、盛大なる喧嘩に発展したのだが、こんなことを繰り返しながら、父は徐々に父であることを卒業し、娘に面倒をみてもらうことを受け入れていたのかもしれない。
ああ、そろそろお金が無くなったんだ、と何とも分かりやすい態度のオンパレードで、まさに思い通りにならずダダをこねる3、4才児状態だった。
それでもなかなか「小遣いをくれ」とは言わなかった。そこは、男の意地なのか?父としての最後の砦なのか?は不明だが、そんなプライドなどとうの昔に朽ち果てているのだが、それでも威厳を保とうとするあたり、そこだけを切り取ってみれば、これが男気というものだろうか?とも思う。
いよいよ困り果てると、どこで覚えたのか?猫なで声で小遣いを所望するようになった。
一度に多くを渡すと、調子に乗ってすぐ使ってしまうので、2、3千円ずつ渡すようにした。
最初は、「たったこれだけか!」と、悪態をついていたが、私も徹底して所望するまでは渡さないようにした。
すると、徐々にそのありがたみが分かってきたのか?下出になってきたが、ある時「俺家を出ていくから10万円くれ!」と言い放った。
私としてみれば、「10万円で出てくれるなら、願ったり叶ったりだ!」と思い10万円を渡し、「じゃ、これで家を出てね」と言った。
すると、みるみる目の色が変わり、渡した10万円を私に投げつけたのだ。
自分が出ていくというから渡したのだが、どうやら本意ではなかったようだ。
もちろん、私だって10万円で家を出るなんてことが出来ないことくらい分かっている。
だが、そんな小細工的言い訳で10万円を所望するなんて…。
この後は、盛大なる喧嘩に発展したのだが、こんなことを繰り返しながら、父は徐々に父であることを卒業し、娘に面倒をみてもらうことを受け入れていたのかもしれない。
2017年07月05日
エピソード1-3:相容れぬ感情3
私の学生時代、父は大工をしていた。
小さな工務店で働いていたが、仕事はそれなりにあり、給料ももらっていたが、天引きされていた厚生年金を、実はその会社がネコババしていて、父が年金をもらう歳となり手続きをすると、年金を収めた記録がなかった。
大工を辞めた後は70代まで職を転々とし、なかにはきちんと年金を納める会社もあったが、その額はあまりに僅かだったため、事実上の年金は後期高齢者保険料を引いたらほぼ残らず、父は私の給料と母の少しの年金を合わせた収入で扶養していた。
騙された?とはいえ、社会的事柄をないがしろにし、将来自分に年金が入らなくなることなど想像だにせず、そうなった現実にさえ父は目を向けず、全てを母や私達子供に任せっきりで、自分では何もしなかった。
その結果が、父にとってはお金のないみじめな老後になるのだが、それでもへっちゃらで、私から小遣いをもらっては、ご満悦だった。それで満足はしてなかっただろうが、最期まで食べるには困らなかったことを思えば、やっぱり幸せだったのだろうか…。
小さな工務店で働いていたが、仕事はそれなりにあり、給料ももらっていたが、天引きされていた厚生年金を、実はその会社がネコババしていて、父が年金をもらう歳となり手続きをすると、年金を収めた記録がなかった。
大工を辞めた後は70代まで職を転々とし、なかにはきちんと年金を納める会社もあったが、その額はあまりに僅かだったため、事実上の年金は後期高齢者保険料を引いたらほぼ残らず、父は私の給料と母の少しの年金を合わせた収入で扶養していた。
騙された?とはいえ、社会的事柄をないがしろにし、将来自分に年金が入らなくなることなど想像だにせず、そうなった現実にさえ父は目を向けず、全てを母や私達子供に任せっきりで、自分では何もしなかった。
その結果が、父にとってはお金のないみじめな老後になるのだが、それでもへっちゃらで、私から小遣いをもらっては、ご満悦だった。それで満足はしてなかっただろうが、最期まで食べるには困らなかったことを思えば、やっぱり幸せだったのだろうか…。
2017年07月04日
エピソード1-2:相容れぬ感情2
致命的な相容れぬ事柄は、父とは価値観が違いすぎる、ということだ。
その場凌ぎで、先のことを深く考えたり、それにあたって何がしかの準備や努力をする、という計画性に乏しい父とは、根本的に思考がかみ合わず、しょっちゅう喧嘩になった。
小喧嘩は日常茶飯事で、それが積もり積もると大噴火的な喧嘩になる。
子供の頃はやられっ放しだったが、両親との再同居から数年が経った頃、父と取っ組み合いの喧嘩になったことがあった。
80歳近い老人とはいえ、男だ。やっぱりクソ力は強い。
つかみ合いとなった時、私は万感の力を込めて父を蹴り倒した。
すると、意外にも?すんなり父は倒れ、柱にぶつかった。
「やりやがったな~~!!!」と、血眼で私にかかってくるが、倒されたことがショックだったのか?寄る年波にあらがえなかったのか、はたまたわざと負けてくれたのか?瞬く間に力が萎えていき、それから父は従順になった。
とは言いながらも、そう簡単にそれは持続しないのだが…。
ある日を境に、子は親を越え、親は子に従うようになる、というのはこのことか…とも思わされた。
父のジタバタ感はまだまだ続くのだが、相容れぬ親子の決着のきっかけとなった出来事だった。
ちなみに、両親共に骨密度が非常に高く、柱に頭をぶつけても傷ひとつ負うことはなかった。
その場凌ぎで、先のことを深く考えたり、それにあたって何がしかの準備や努力をする、という計画性に乏しい父とは、根本的に思考がかみ合わず、しょっちゅう喧嘩になった。
小喧嘩は日常茶飯事で、それが積もり積もると大噴火的な喧嘩になる。
子供の頃はやられっ放しだったが、両親との再同居から数年が経った頃、父と取っ組み合いの喧嘩になったことがあった。
80歳近い老人とはいえ、男だ。やっぱりクソ力は強い。
つかみ合いとなった時、私は万感の力を込めて父を蹴り倒した。
すると、意外にも?すんなり父は倒れ、柱にぶつかった。
「やりやがったな~~!!!」と、血眼で私にかかってくるが、倒されたことがショックだったのか?寄る年波にあらがえなかったのか、はたまたわざと負けてくれたのか?瞬く間に力が萎えていき、それから父は従順になった。
とは言いながらも、そう簡単にそれは持続しないのだが…。
ある日を境に、子は親を越え、親は子に従うようになる、というのはこのことか…とも思わされた。
父のジタバタ感はまだまだ続くのだが、相容れぬ親子の決着のきっかけとなった出来事だった。
ちなみに、両親共に骨密度が非常に高く、柱に頭をぶつけても傷ひとつ負うことはなかった。
2017年07月03日
エピソード1-1:相容れぬ感情1
幼い頃から、私は父が好きになれなかった。
戦前生まれで戦争にも行った父は、何か事あるごとに軍隊のごときスパルタ的な感情を剥き出しにしては、よく怒っていた。自分の思い通りにならないことがあると、子供に当たり散らし、殴る蹴るは日常茶飯事だった。
それどころか、私が大人になってその話題になると、「自分はそんなことはしていない!」と言う。
人は、自分のした不都合については、忘れるのだろう。
だが、された方は憶えていたくなくもて、心の奥底にいつまでも燻っているものだ。
だが、父を好きになれないのはそれだけが理由ではない。
自分でも、何でこんなに嫌いなのか?フシギで仕方なかったが、大人になって母から聞いた話によると、私が母のお腹に命を宿した時、「堕ろせ」と言ったそうだ。
金銭的なことでもう一人子供が増えることを良しとしなかったそうだ。
だが、母は父の言葉に背き、私を産んだ。
それだからなのか?幼い頃から父は姉ばかりをかわいがり、私はかわいがってもらった記憶がほぼない。
どちらかと言うと、意地悪的なことをされた記憶のほうが強いのだ。
人間としての定かな記憶はなくても、父の本音をお腹の中にいる時に感じてしまった、それが父を嫌う根本的な原因なのかもしれない。
そんなわけで、私は父が死ぬまで好きにはなれなかったし、今でも好きではない。
死んでからと、死ぬ一か月前に体験した父の魂との会話(幼い頃から私は若干の霊感のようなものがあり、色んなフシギ体験をしている)で、子供の時のような憎しみはほぼなくなったが、父が元気なうちにそうなれなかったのは、残念なことではある。
そんな相容れぬ感情を持続したままの同居は、まさに辛抱の連続だった。
戦前生まれで戦争にも行った父は、何か事あるごとに軍隊のごときスパルタ的な感情を剥き出しにしては、よく怒っていた。自分の思い通りにならないことがあると、子供に当たり散らし、殴る蹴るは日常茶飯事だった。
それどころか、私が大人になってその話題になると、「自分はそんなことはしていない!」と言う。
人は、自分のした不都合については、忘れるのだろう。
だが、された方は憶えていたくなくもて、心の奥底にいつまでも燻っているものだ。
だが、父を好きになれないのはそれだけが理由ではない。
自分でも、何でこんなに嫌いなのか?フシギで仕方なかったが、大人になって母から聞いた話によると、私が母のお腹に命を宿した時、「堕ろせ」と言ったそうだ。
金銭的なことでもう一人子供が増えることを良しとしなかったそうだ。
だが、母は父の言葉に背き、私を産んだ。
それだからなのか?幼い頃から父は姉ばかりをかわいがり、私はかわいがってもらった記憶がほぼない。
どちらかと言うと、意地悪的なことをされた記憶のほうが強いのだ。
人間としての定かな記憶はなくても、父の本音をお腹の中にいる時に感じてしまった、それが父を嫌う根本的な原因なのかもしれない。
そんなわけで、私は父が死ぬまで好きにはなれなかったし、今でも好きではない。
死んでからと、死ぬ一か月前に体験した父の魂との会話(幼い頃から私は若干の霊感のようなものがあり、色んなフシギ体験をしている)で、子供の時のような憎しみはほぼなくなったが、父が元気なうちにそうなれなかったのは、残念なことではある。
そんな相容れぬ感情を持続したままの同居は、まさに辛抱の連続だった。
2017年07月02日
エピソード0-2:12年間の概要
父77歳、母74歳の時に、両親と同居した。ちなみに、私は40歳の頃だ。
この頃、まだ両親の体力はあった。
父は自転車で買い物にも行けたし、母は2~3キロのウォーキングもこなしていた。
父が80歳を過ぎた頃、それまで投薬で何とか凌いでいた腎臓が機能しなくなり、人工透析が始まった。
私はその頃残業バリバリの仕事に就いていたため、帰りも遅く、家のことは母がこなしてくれていた。
父は86歳で亡くなるまでの6年間、透析のために通院したが、その間に何度も治療拒否をしては、結果的に救急搬送されることを年に1度のペースで繰り返した。
この6年間に、私は勤めていた会社が破綻して職を失い、次の仕事のために1年間休職して資格を取り、新たな仕事に就いたり、母は家のことと、趣味のパッチワークに励み、それなりに何とか協力しながらその日その日を送った。
父が亡くなってから、それまで行けなかった母との二人旅行を年に2回以上はしたりするものの、今度は母の体力が落ちてきた。
今年、86歳になった母は、今は一人では外出できなくなった。何とか歩行は出来るが、交通量や人の往来の多い街中を、一人で歩くのが怖いそうだ。
家事も10年前の半分くらいしか出来なくなった。
まあ、そんなこんなで今に至るわけだが、12年間の概要はざっとこんなところだ。
明日からは、その詳細を記していこうと思う。
この頃、まだ両親の体力はあった。
父は自転車で買い物にも行けたし、母は2~3キロのウォーキングもこなしていた。
父が80歳を過ぎた頃、それまで投薬で何とか凌いでいた腎臓が機能しなくなり、人工透析が始まった。
私はその頃残業バリバリの仕事に就いていたため、帰りも遅く、家のことは母がこなしてくれていた。
父は86歳で亡くなるまでの6年間、透析のために通院したが、その間に何度も治療拒否をしては、結果的に救急搬送されることを年に1度のペースで繰り返した。
この6年間に、私は勤めていた会社が破綻して職を失い、次の仕事のために1年間休職して資格を取り、新たな仕事に就いたり、母は家のことと、趣味のパッチワークに励み、それなりに何とか協力しながらその日その日を送った。
父が亡くなってから、それまで行けなかった母との二人旅行を年に2回以上はしたりするものの、今度は母の体力が落ちてきた。
今年、86歳になった母は、今は一人では外出できなくなった。何とか歩行は出来るが、交通量や人の往来の多い街中を、一人で歩くのが怖いそうだ。
家事も10年前の半分くらいしか出来なくなった。
まあ、そんなこんなで今に至るわけだが、12年間の概要はざっとこんなところだ。
明日からは、その詳細を記していこうと思う。
2017年07月01日
エプソード0-1:始まりは12年前
両親と再同居をするようになったのは、12年前だ。
私は30代に一人暮らしを満喫し、40代になった頃、両親の老いが目に付くようになった。
その頃両親はすでに70代を越えていた。
両親共大病や持病もなく、世間一般的に見れば、十分健康な高齢者だった。
だが、寄る年波には勝てず、体力は落ちるし、物事の認識にも不安な事柄が顕れ始めた。
その頃両親は二人暮らしだったが、このまま二人だけにしておいてよいものか?
私には兄と姉がいるが、兄は九州に、姉は嫁に行っており、両親の面倒を見る環境下にあるのは、独身の私だけだった。
30代の10年間ほどを、私は自分のやりたいことを満喫し、ある種やり尽くした感があった。
これからは、両親と一緒に暮らし、身も心もボケる前に手を打とう!と決心した。
そうして再同居を始めたのが、2005年11月だ。
ここからの12年間を、そして今を、「高級養老院物語」として記していく。
私は30代に一人暮らしを満喫し、40代になった頃、両親の老いが目に付くようになった。
その頃両親はすでに70代を越えていた。
両親共大病や持病もなく、世間一般的に見れば、十分健康な高齢者だった。
だが、寄る年波には勝てず、体力は落ちるし、物事の認識にも不安な事柄が顕れ始めた。
その頃両親は二人暮らしだったが、このまま二人だけにしておいてよいものか?
私には兄と姉がいるが、兄は九州に、姉は嫁に行っており、両親の面倒を見る環境下にあるのは、独身の私だけだった。
30代の10年間ほどを、私は自分のやりたいことを満喫し、ある種やり尽くした感があった。
これからは、両親と一緒に暮らし、身も心もボケる前に手を打とう!と決心した。
そうして再同居を始めたのが、2005年11月だ。
ここからの12年間を、そして今を、「高級養老院物語」として記していく。