前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

2017年09月

母と出かける時、転倒防止のためリュックを背負うように頼むが、好きではないらしく、いつもイヤな顔をされる。
ヨタヨタとようやく歩ける程度だから、側を自転車が通ったり、走る人がいたりするとヨロけてしまう。

そんな時、両手が空いてるほうが良いので、頼むからリュックを背負って欲しい!と懇願しても、気付けばバックを手にしている始末だ。

その中身はいうと、シルバーパスや財布、ハンカチ、テイッシュなのだが、このティッシュの量がハンパない。
どんだけティッシュ持ってるの?というくらいだ。

本人曰く「いつ鼻水が出るか分からないから、ティッシュは手放せない」と言う。
ならば、ポケットティッシュ2つくらいあれば十分だろうと思うが、バックに付いているポケットの中には漏れなくそれがいくつも入っている。
ちなみに、履いてるパンツのポケットにもティッシュは入っている。

で、結果的にいつもバックが重くなり、挙句の果てにバックに入れたペットボトルを取り出して、「持って!」と私に丸投げする。
だからぁ~~~~、リュックにしてよ!!!

予想通りの展開とはいえ、お嬢様のティッシュ命?には泣かされている

歳相応の認知力の低下は、思わぬ副産物を生むことがある。
ヘタな計算がない分、「天才!?」と思しきことが予期せぬ時に起きる。
その筆頭は言い間違いなのだが、先日もこんなことがあった。

大河ドラマを観ていた時のこと。
松平健演じる武田信玄の迫力ある演技を目の当たりにし、

「さすが!声優だねぇ~!」と母。

「それ言うなら、名優でしょ!」と私。

「あら、そう?」と知らん顔する母。

毎日こんな感じで、堂々と?我が道を行く。
私に突っ込まれることなんてなんのその!?

これぞ母の生きる道!ってことだろう

歳老いた両親との同居は、なかなかの辛抱の連続だ。
仕事に行っている間と寝ている時間以外のほとんどは、家事や介護に追われる。

とは言え寝たきりではないし、体力と認知力が人並みに?衰えているくらいだから、介護というほどのことではないのかもしれない。
それでも、意思の疎通や生活のリズムを合わせていくことは、骨が折れるし、忍耐力が必要だ。

同居したての頃はそれらにいちいちイラついていたこともあるが、ある日からそれが諦めに変わり、諦めると今度はなぜか面白くなってきた。

そうか、これはある種のネタなんだ!と思いついた途端、思い通りにならない日常に未知の可能性さえ感じた。
今度はどんなことをしでかしてくれるんだろう?どんなことを言い放つのだろう?と。

エピソード6からは、新鮮な天然ネタを披露していきたいと思う。

「だって、しょうがないでしょ、子供になってるんだから!」と、自分が子供に還っていることを自ら認める時がある。

今まで出来ていたことが出来なくなったり、子供のように食べ散らかしたり、こぼしたり、体調の悪い時には失禁したり、なんてこともある。

自分でも思いがけない自体に、恥ずかしさと、情けなさと、悔しさといった感情がごちゃ混ぜになり、出てくる言葉なのだろう。

そうだよな~、子供に還るということは、生まれたての赤ん坊に戻っていくことで、そうでなければ今生を終えることは出来ないのだ。
長寿で天命を全うするということは、こういうことなのだ。

そして、自分も親と同じ年齢になった時、同じことを言いながら、子供に還っていくのだろう。
「親が安心して子供に還る」=「自分の未来」ということだ(因果応報)。

「また大きくなったなぁ~!」と、感嘆する両親の声があった。
「いやいや、君たちが小さくなったんだよ」と私。

若い頃の両親は、揃って160センチ越えの身長だったが、高齢になってからは日々それが縮み、最終的に150センチほどしかない私より小さくなった。

「歳を経ると子供に戻る」現象は、精神面だけでなく、肉体的にもそうなっていく。
身長は縮み、筋力も落ち、歩行もままならぬようになる。

だが、ひとつだけ衰えないものがある。
それは、「お口」だ。

これだけはいつまで経っても達者なことこのうえない。
肉体の衰えと共にお口も衰えるかと思いきや、これぞ「最後の砦?」かのようだ。

還るべきゴールはあるのだろうが、これだけは最期の最後まで現役だ。

手先が若い頃から器用な母は、和裁、洋裁、編み物をこなすマルチだ。
私と再同居した頃に始めたのは、パッチワークだ。

区のカルチャースクールに月2回習いに行き、出された課題を家でコツコツ縫っていた。
パッチワークはミシンと手縫いがあるが、母は手縫い派だ。

小さなパーツをいくつも組み合わせ、壁に飾れるくらい大きなものを作っていく。
結果的に教室には10年近く通い、残した作品は数知れず、季節に合わせたものが多いので、月日の流れと共に、部屋に飾るそれも変えている。

私は幼少期から3つの習い事に5年ほど通わせてもらった。
今度は、私が母に習い事をさせてあげる番になった。

まさかこんな日が来るとは夢にも思ってなかったが、自分がしてもらったことを返せる幸せ、これも親が子供に還る一環なのだろう。

両親と再同居を始めた頃、まだ母も元気だったので、夕飯は作ってくれていた。
それから数年後には、気付けば私が食事を作っていた。

学生の頃より家族の食事は作っていたから、特段困ることはなかったが、親の食事の好みも昔とは違っているし、食べる量も減ってきた。
私も、親と同様歳を重ねるから、自身の好みと量も変わってきた。

父がいる頃は、お米を1か月10キロ購入していたが、母と二人になってからは1年で30キロにググン!と減った。
新米の時期に玄米を30キロ購入し、それを1年かけて食べる、といった感じだ。

年月と共に母の身長は縮み、どんどん痩せていく。
持病があるわけでもないし、1日3度欠かすことなく食事をとっているが、やはり痩せるのだ。
代わりに?私はどんどん肥えていき、周囲から「お母さんにちゃんとご飯食べさせてるの?」などと言われる始末だ。

今は、母が喜んで食べてくれるものを中心に、食事を作っている。
「今日のご飯は何?」が、母の口癖となった。

江戸時代頃までは、人間の寿命は約半世紀ほどだった。
それから200年ほどで、それは倍以上となり、見た目も若い。

それでも、さすがに肉体の衰えは止められず、それと並行するように精神も脆くなっていく。
若い時は辛抱出来たことも、理性が衰えると本性が出る。

何てことない会話の途中でプチ切れしたり、泣き出したりと、感情は何とも忙しい。
子供の頃は漠然とした不安感があったが、そこに還り出した親も同様の思いに駆られているのだろう。

不安感や焦燥感といったものは、知らず知らず自分の中に芽生える。
それを家族に分かって欲しい、という欲求が「切れる行為」に繋がるのだろう。

口を利けない子供が、泣き叫ぶのと同じなのかもしれない。

高齢になると、耳は遠くなるし、活舌も悪くなるうえに、思考回路も理論的ではなくなる。
両親に対するコミュニケーション力も、なかなか高度になってくる。

大切な話は順序立てて、ゆっくり大きな声で話さないと通じない。
話を理解したなと思っても、翌日になると忘れている。

会話だと、自分の言いたいことだけを言ううえに主語がないから、親の思考を汲み取るのに骨が折れる。
自分が元気な時は良いが、疲れている時は、口を利くのも億劫になるほどだ。

自分が幼子だった頃、親はまともに口も利けない子供とのコミュニケーションにはさぞや困っただろう、と想像した。
子供には学習能力がもれなく付いてくるが、子供に戻ろうとしている両親は、それを遡っているのだから、それ相応の対応が必要になる。

子供に戻ることとは?その先々まで想像しつつ、着々と還るべき場所を目指す毎日だ。

病人の父と、病気はないが歳相応に出来ないことが増える母だが、それでも家事の一部や身の回りのことは出来る。
それは、何より助かるし、ありがたいことだ。

私はフルタイムで働いてるから、両親がやってくれるそれらは、少なからず助かっている。
時には二度手間になることもあるが、「やろう!何かやらなくては!」と思ってくれるその気持ちが大切なのだ。

だが、時にそれぞれの機嫌や体調が悪いと、日課が放置され、帰宅後にそれらを私がやるハメになる時がある。
それは大抵、こちらも仕事でグッタリ疲れ切った時に起こることが多い。
何だろう?この法則…。

そんな時、私も感情的になりがちで、出来ていないことをグチってしまうこともある。
すると、「だって、疲れてるんだもん!」「だって、今日は気分が乗らないんだもん!」といった感じで、プチ切れされる。

何十年と日課をこなしてきたのだから、やってなくて当たり前、やってくれて奇跡くらいに思わなくては…と自分に言い聞かせながらも、子供のように駄々をこねられると、こちらの疲労も倍増する。

だが、これも親が心配なく子供に還る法則なのだろう。

家計を私に任せた両親は、欲しいものがある時は私におねだりするようになった。
お菓子や日用品といった安価なものなら、極力希望を叶えることにしている。

というのも、両親揃って戦争を体験し、お腹いっぱい食べられなかった幼少期を体験しているから、本能の欲求は満たしてあげたい、と思ったからだ。
とはいえ、幼い時から節約精神が身に付いているからか、高級品を所望するようなことはなかった。

これまで苦労してきたのだから、食べたことのないものや、便利な電化製品、身体の痛みを抑えるサプリメント等々、少しでも両親が喜べばと、あれこれ用意した。

すると、徐々にそれらに味を占め、安価なものは好まなくなった。
そりゃ、そうだ、誰だって上等なもののほうが良いに決まっている。
そんなふうに甘やかしたのは私なのだから、これからどうやり繰りするのか?

新たな課題を自ら招いてしまった。

子供が親を越えた瞬間とはいつだろうか?
私がそう感じた象徴的な出来事は、家計を任された時だ。

それまでは親が家計を仕切り、必要なものがあればお金を託され、変わりに物品を購入していた。
その行為自体もある意味、親が「しなくなった」ことのひとつかもしれないが、親を越えたという括りにはならないだろう。

両親と再同居する際に必要なお金を親が用意していた。
それを私に渡すと、「このお金で今回の引っ越しに必要なものを賄って」と言われた。

その瞬間、これからは私が家計を握るのだなと実感した。
それからは自分の給料を含め、親の年金の管理もし、日々の家計もやりくりしている。
それに対し、親は何ひとつ文句は言わなかった。

親も子供に越えられることを覚悟していたのだろう。

両親と再同居を始めて、1日1日出来ないことが増えていき、精神も子供に戻っていくことを実感した。

翻ってみるに、私がこの世に生を受けた時は赤ん坊で、毎日24時間親は手をかけ育ててくれた。
そのおかげで、1日1日出来ることが増え、智慧が付き、大人になると社会人として生きていくことが出来ている。
それは人としての伸びしろであり、未来を作る元となる。

社会人として多くの責務を果たし、それが終わった瞬間から、今度は終生に向かっていく。
そうなるには、肉体も精神も、生まれた時のものに戻っていかなければならない。
そうでなければ、この世を終えることは出来ないのだ。

そう考えると、老いた親が粗相をしたり、認知症になるのは、自然の摂理なのだ。
とはいっても、周囲はなかなかそれに順応出来ず苦しむ。

それをいかに乗り越えていくか…大きな課題だが、否が応でも目の前に突き付けられるのだ。

6年間に亘る透析生活は、父にとって出口の見えない課題であったことだろう。

治療をして良くなるのかと思いきや、良くて現状維持で日を追うごとに悪くなっていく。
それに加齢がプラスされていくのだから、見えない未来は暗澹たるものでしかなかっただろう。

そんな父の姿を通して、医療とその制度の高さに改めて感服した。
決して裕福とはいえない我が家でも、等しく高度医療を受けられる。

国のやることに思うことは多々あれども、衣・食・住・医・学においては誰もが平等に与えられるのだから、やはり日本の制度は世界のトップクラスといっていいだろう。

老いや病気の進行を食い止めることは出来なくても、最期まで最善を尽くす術があることはありがたいことだ。
渦中にいると見えなかったことも、こうやって時が過ぎると改めて思い至ることもある。

私が透析を経験したわけではないが、これが一例として、誰かの役に立てているなら、と思い透析生活で気付いたことを書くことにした。
このエピソードは今日で終わるが、また気付いたことがあったら記したいと思う。

父の慢性腎不全との闘いは6年間に及んだ。
80歳を過ぎてからの人工透析はかなり辛かったことだろう。

週に3日病院に通い透析治療を受け、帰ってからはガッツリご飯を食べては眠る。
透析のない日も、食べてるか寝てるか、の日々だった。

時には血圧が200を超えたり、便秘と下痢に悩まされ、体重が増えると病院で叱られ、加齢と共に足腰も弱くなり、あちこちが痛む。
長い年月受けた透析の影響で皮膚もカサカサになり、身体のあちこちから出血する。
そのうち心臓にも大きな負担がかかりだし、ちょっと歩いただけでも息が切れるようになった。

それでも、父は弱音を吐かなかった。
「キツイ」「イタイ」と言ったことはあったが、それを嘆き悲しんだり、周りに当たり散らしたり、ということはなかった。

それだけは父のスゴイ!ところだと、今にして思う。
自らの生活習慣で招いた病気だからか?私に烈火のごとく説教を喰らったからか?

父の中で、最期まで病気と向き合う覚悟があったのだ。
それは、父の残した功績と言って良いだろう。

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