2016年07月26日
違って当たり前
相模原の障害者施設での事件は、戦後最大級の事件として大きく取り上げられている。
犯人の犯行動機として、「障害者をこの世から無くしたかった、意思疎通の図れない者は人間ではない」という供述をしている、という。
障害者の中には、表立っての意思疎通を図れない人もいるかもしれないが、それは大きな間違いだ。
身体が不自由でも、精神的に錯乱していても、「生きたい」という思いは、どんな人間にも共通した感情だし、お世話をしてくれる人に対しても、間違いなく感謝の念を抱いている。
それを、いわゆる健常者と違うからという理由で、この世から葬って良い、という道理にはならないし、自分が健常者だ、という思いもまた傲りでしかない。
五体満足で毎日元気に働けることに喜びを見いだせたら、助けを待つ人に手を差し伸べるのは、人として当たり前のことだ。
それが出来ない人こそが、人間の心を持ちえない、まさに障害者だ。
健常者であろうが、障害者であろうが、意思の疎通が図れなくても、皆同じ人間なのだ。
健常者、障害者という括りをすること自体おかしい気もする。
人と自分は違って当たり前だ。
お互いが、それぞれの得意を生かし、世の中が成り立っている。
一見何も出来そうに見えない人にだって、その人にしか分からないお役目があるのだ。
他の人がその芽を勝手に摘むことは、やはり大罪だ
犯人の犯行動機として、「障害者をこの世から無くしたかった、意思疎通の図れない者は人間ではない」という供述をしている、という。
障害者の中には、表立っての意思疎通を図れない人もいるかもしれないが、それは大きな間違いだ。
身体が不自由でも、精神的に錯乱していても、「生きたい」という思いは、どんな人間にも共通した感情だし、お世話をしてくれる人に対しても、間違いなく感謝の念を抱いている。
それを、いわゆる健常者と違うからという理由で、この世から葬って良い、という道理にはならないし、自分が健常者だ、という思いもまた傲りでしかない。
五体満足で毎日元気に働けることに喜びを見いだせたら、助けを待つ人に手を差し伸べるのは、人として当たり前のことだ。
それが出来ない人こそが、人間の心を持ちえない、まさに障害者だ。
健常者であろうが、障害者であろうが、意思の疎通が図れなくても、皆同じ人間なのだ。
健常者、障害者という括りをすること自体おかしい気もする。
人と自分は違って当たり前だ。
お互いが、それぞれの得意を生かし、世の中が成り立っている。
一見何も出来そうに見えない人にだって、その人にしか分からないお役目があるのだ。
他の人がその芽を勝手に摘むことは、やはり大罪だ