目の前にいても人間も動物であるならば

2019年09月14日

何が幸せか

夫の浮気を「あえて」ほじくらない妻たちを読んだ。

この記事で印象に残ったのは、夫は所詮他人であり、その人生を管理することも、縛ることも出来ない、夫の人生は夫のもの(要約)というものだ。

夫の浮気を見て見ぬ振りをすることで、家庭が丸く収まるならそれもアリだろうが、妻としてそこまで達観なのか?諦めなのか?出来ることは、ある意味正解かもしれない。

夫であれ妻であれ、相手の浮気に一喜一憂し、差し違えるほどの喧嘩が出来るエネルギーがある夫婦は、肉体的にも精神的にもエネルギーが有り余っている、ということでもあろう。

現実として、子育てや介護に追われる日々であったら、そんなことにいちいち構ってる暇はないだろう。
浮気をして結果的に墓穴を掘るのは、された側ではなく、した側になるのだから。

違う見方をすると、相手と真剣に向き合っていない、という面もあるが、それは個々人どこまで相手の心に踏み入っていけるのか?その度量はそれこそ人それぞれだ。

夫婦だからと言って、100%全てを分かち合えるというのは所詮無理なのだ。
生まれ育った環境も思考も違うのだから。ならば、その違いをどう受け止め、共に進んでいくのか?
違いの溝を日々共に暮らすことで埋めていきながら生きていくのが、他人と一緒に暮らす、ということなのかもしれない。

それを幸せと思えるかどうかもまた、本人次第、ということだろう。

enji_152 at 20:11│Comments(0)今世 | 課題

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