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カテゴリ:今世 > 居心地の良い場所

カテゴリー:居心地の良い場所のおまけ

私の身近にかまってちゃん⇒かまいたこちゃんに変身した人がいる。
それに対して私は、彼女の依存体質に壁を作った。
距離を置かれたことで、彼女も考えたのか、今は程よい大人の付き合いをしている。

だが、彼女の依存体質を知らない人が現われた時、またしてもかまってちゃんのスイッチが押された。
新しい標的を見つけて、そこに居心地の良さを求め始め出した。

やっぱり、かまってちゃんは変わらないのだ。
変わる必要があるかどうかは本人が決めることだし、私がどうこう言えることでもないだろう。
そのうち、またイヤがられて辛い思いをすることになる。

だが、それもかまってちゃんならではなのだろう。
イヤだと思うことを心からイヤだとは思っていなくて、同じことを繰り返すのだ。
結局、かまってちゃんは、居心地の良い場所から抜け出す気はないのだろう

10回に亘り、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」にまつわる事柄を書いてきた。
これは、かつての私が「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」であったこと、そして今は逆の立場となり、過去の自分と対峙せねばならない現実と向き合っていることから、自分が通ってきた道であり、それを克服できた経緯を記そうと思ったことに始まる。

私には、私のおかしいところを、「おかしい」と教えてくれる友人がいた。
それまで、親の価値観の中だけで生きていた私は、知らず知らず「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」になっていた。他人から面と向かって「変だ!」と言われたおかげで、私は自分を変えるきっかけをもらえた。

一朝一夕に「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」を克服出来たわけではないが、日々巡ってくる事柄と向き合い、周りの助けのおかげで、無事に「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」を脱却できたようだ。
その時の私は、気持ちが丸裸だった。素っ裸の心のままでも、恥ずかしくない自分になっていた。

ここに書いている全てが、誰もに当てはまるわけではないが、何かのヒントになればと思う

人生において、人にあげられるものはあげて、自分は必要なものだけを身に付けていればよいと思う(心・気持ちのこと)。

人の物が欲しい、人より先に話したい、人より良い思いをしたい、誰よりも私だけを見て欲しい!と思えば思うほど、我欲のパワーに圧倒されて、人は離れていく。

私が!私が!という我を捨ててみると、思った以上に気持ちが軽くなる。必死で抱えていたもの(価値観や思考・気持ち)は、実は、どうってことないものだったりする。捨てるには勇気がいるが、一瞬の勇気で物事は180度変わる。

自分の思いより、人の思いを優先する(出来る範囲で)。すると、自分が困った時には、誰かがタイミングよく現れて助けてくれる。世の中とはそんなふうにうまく出来ている。

「本物の居心地の良い場所」は、逃げ場のない断崖絶壁(自立した精神で、今あるべきことから逃げずに立ち向かう場所)でありながら、それを克服すると、心が、花咲き乱れるオアシスになる場所なのかもしれない

「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」は、人や物に感謝する気持ちが希薄な傾向にある。
今あるべき状態が「当たり前」だと思いがちで、元気に生きていること、食べるものや、住む家、着る物にも困っていないこと等々、たくさんの恵まれたことに気付けず、足りないことばかりを探しては不満を募らせている。

不満や不安な心が起きてきたら、その度に理不尽だと思っても「ありがとう」という言葉を心で(口に出してもOK)唱えてみる。
だまされたと思ってやってほしいのだが、これをずっと続けていると、自然と心が穏やかになり、本当に「ありがたいな~」と、心から思えるようになる(そう思えるまでかなりの辛抱と、時間はかかるけど)。

口にすること、思うことには魂が宿る(言霊)。
ポジティブなことを口にする人には良いことが起きてくる。心配や不安や不満ばかりを口にする人には、不都合なことばかりが起きてくる。フシギなことだが、それが現実だ。

辛く苦しい気持ちにあえて反抗するように、魔法の言葉「ありがとう」をぜひ口に(心に)して欲しい

人にはそれぞれ、育った環境による価値観がある。どれが良くて、どれが悪いといったものではない。
千差万別の価値観があるから、社会は成り立っているのだと思う。

だが、往々にして自分の価値観を押し付けがちになるのが、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」だ。
自分はこういう境遇で生きてきたのだから、この価値観が正しい、これじゃなきゃ私は無理!と頭から人の価値観を否定しがちだ。

他人の価値観を拒否しようが、抵抗しようが、それは個人の自由だが、だからと言って自分の価値観を押し付けてくるのは違うでしょ…と思う。

自分以外の価値観を受け入れられないということは、かまって欲しいくせに、自分から他人を拒絶しているのと同じことだ

人は、一人では生きていけないわけで、周囲の方達のお世話になっているのが現状だ。
「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」も、周囲に支えられて生きているのだが、その支えに寄りかかり過ぎる傾向がある。

人との付き合いは、「腹八分」、いや「腹六分」くらいが程よい。どんなに心を許せる相手であっても、ある程度の距離を置いて付き合うことが、互いの関係を良好に長続き出来る秘訣だ。

大人になればなるほど、人には話せないこと、話したくないこと、話せる時節があること等々、そう簡単にはいかないことが起きてくる。あまりにも相手に近づきすぎると、知らず知らず相手の生き方や感情に土足で踏み込むことになってしまう。

より良い関係でありたいならば、相手をかまい過ぎたり、頼り過ぎないことだ。
精神は、常に一人立ちしていたいものだ

「どうせ、私の気持ちなんて分からないわよ!」(逆ギレ気味に)と、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」は言う。
「はい?」と、私は首をかしげる。

当人じゃあるまいし、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」の感情なんて、分かるわけがない。というか、他人に「自分の感情を理解し、かまってほしい」というその性根って?

人間、誰だって人には言えない辛いことや、苦労している事はたくさんある。家族や親族、職場や学校、友人関係、その他もろもろ、誰だって多かれ少なかれ、大事を抱えているものだ。
それを、「なぜ他人は私がこんなに大変な思いをしているのに分かってくれないの?分かったうえで、慰めてくれないの?」と言うのは、自分のことには関心を持って欲しいが、他人のことはどうでも良いと言っているのと同じことだ。

誰もが己の苦悩と葛藤しながら、決してそれを人には見せずに、毎日を笑顔で過ごそうと努力している。どんな状況化であれ、他人に迷惑をかけまいという心がけで、己の力で居心地の良い場所を切り拓こうとしているのだ

「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」は、やたらと人の目を気にする傾向にある。
人が自分をどう思っているのか?悪口を言われていないか?と。

「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」が思うほど、他人は、人のことには興味も感心もない、というのが正解だ。他人の一挙手一投足が気になっているのは、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」だけ、と言っても過言ではない。

なぜなら、人間生きていくうえにおいて、大人になればなおさらのこと、自分の家族や親しい方たちとの生活を第一に考えているわけだから、他人のことなんてかまっていられない、というのが本音だ。
だから、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」が自分はどう思われているのか?という疑念は、徒労に終わっている、というわけだ。

それに、自分の周りに多勢の人達(会社組織や学校のクラス等)がいたとしても、相対するのは、常に一対一の関係でしかない。
多勢を相手にしている(すべての人たちが自分をどう思っているのか?と疑念を抱く)、と思うと緊張するが、それは対個人間のことだ(目の前の人は私をどう思っているのか?)、と思えば少しはラクな気持ちで人と対することが出来るのではないだろうか。

「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」は自意識過剰なのだ。
冷たいようだが、他人は「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」のことを何とも思っていない、というのが現実である

「かまいたこちゃん」の特徴として、「自己中」、「他人の目を気にする」、「異常にプライドが高い」、「人の言うことを聞かない」、「自分の話ばかりをしたがる」、「他人の真似をする」…等々の傾向がある。

幼い頃に、「人の身になって物事を考えること」、「人と自分は違うのだから、他人の目を気にしすぎないこと」、「人の話には耳を傾ける」、「人の話を聞いたうで、自分の話をする」、「他人が持っているものを羨ましがらない」などといったことは、誰もが日々の躾の中で教わってきているはず。
それは、人として周りに迷惑をかけない、人の役に立つ人間になるために、両親や周囲の大人達が教えてくれたことだ。

これらを教えられることなく育った人たちが、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」に育ってしまうのかもしれない。何とも気の毒なことである。

大人になってそれらを体得してもらおうと思ってもそう簡単にはいかない。
己に「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」の自覚があるなら、まずは自分に足りないものを認識すること。
周囲は、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」はそういう人間なのだと割り切ったうえで、大人の対応をすること。

それが表面上だけでも上手くやっていく(最悪なパターンに結び付けない)コツかもしれない

「かまいたこちゃん」の言動がエスカレートすると、徐々に周囲も距離を置き始め、気付けば「かまいたこちゃん」は一人ぼっちになってしまう。だが、当人はなぜ自分がそのような状況に置かれているのか、まったく理解出来ず、徐々に周囲に恨みや妬みを抱くようになる。

周囲に対して負の感情を抱き始めると、それは暴走し、いつしか自分の居場所を無くすことになり、自らその環境を手放さざるを得なくなる。周囲は、「やれやれ」と胸を撫で下ろす。

「かまいたこちゃん」にとっては理不尽な思いを抱いたまま、次の環境へ移っていく。そして、そこでもまた同じことが繰り返される。それでも、「かまいたこちゃん」は己を振り返り、見つめようとはしない。
最悪の場合、「かまいたこちゃん」の感情は牙となり、周囲に向けられることになる。

どんな環境でも、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」は生息する。
それらを放置しておくと、取り返しのつかない事態に発展することになる。それが怖いと思う。
かといって、積極的に関わりたくないのが本音だろう。

「かまいたこちゃん」は、対個人で対処できるものではない。集団という社会の中であるならば、周囲の人たちと連携して「かまいたこちゃん」と共存出来る道を模索するしかないのだろう

「かまってちゃん」が進化すると、「かまいたこちゃん」になっていく。
若い頃なら「かまってちゃん」は通用するが、年齢を経ると、徐々に周囲が引いていく。
すると、今度は自らが積極的に人にかまっていく、いわゆる過干渉になってしまう。

他人の一挙手一投足を常に察知し、何かあればすかさず飛んで行っては口を出し、会話の方向性を自分の意図するものにしようとする。それでも、大概周囲は大人な対応をするので、そんな「かまいたこちゃん」のことも、それとなくやり過ごす。

一旦、「かまいたこちゃん」に心を許してしまうと、再び「かまってちゃん」が顔を出し、徐々に依存してくるようになる。結局は、「かまってちゃん」から脱皮できていないのだ。

世の中には、保護者の愛情を十二分に受けていなくても、それを自ら理解し、育った環境に負けまいと己を奮い起こし、精進している人たちもたくさんいる。
居心地の良い場所にい続けることは、すなわち、自分に甘えているだけなのだ。

己の感情を向けるべき相手は他人ではない。常に、己の葛藤との闘いなのだ。
それが理解出来ない限り、「かまってちゃん」も「かまいたこちゃん」も、心から笑える日はないのだろう

「大丈夫?」と心配されることを想定している人たちがいる。
そういう人たちは、大概常に心身共に具合が悪い。早い話が「かまってちゃん」なのだ。

そんな人たちの話を聞いてあげることは大事であるが、そういう人たちは、誰かにかまって欲しい、私を分かって欲しい、私だけを見ていて欲しい、という欲求が絶えない。
簡単に言えば、幼児期において、保護者からの真の愛情をしっかり受けられなかった結果が、かまってちゃんを生んでいる。

だが、そういう人たちは、自分がかまってちゃんであることに気付いていないし、そこから脱皮しようなどと思っていない。だから、常に周りに目を向けてもらえることだけを考えている。
周りから心配されるような状況をあえて選んでいる、もっといえば、そこに居心地の良さを感じているのだ。

ある程度は他人もかまってはくれるが、その人に成り代わって生きていくことは出来ない。
かまってちゃんのまま一生を送るのか、自分が人のことを思い、かまってあげられる人間になるのか、それは自分次第ということだ。

いずれにしても、人にかまってもらわなければ生きていけないうちは、人間として一人立ち出来ていない、ということを悟ることが肝要だ

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