前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

カテゴリ:未来へ > 死に行く者、生れ出る者

カテゴリー:死に行く者、生れ出る者のつづき。

人が亡くなると、葬儀やその後の式年の弔いや、事務手続き関係などなど、やることはたくさんある。
亡くなった時点でもやらねばならないことは諸々あったが、その後にもまだまだある。

正直言って面倒くさいなぁ~、というのが素直な感想だ。
だが、この手間を省いたことで、結果的に損をするのは自分なのだ。
人が生きている間にもせねばならぬ決まり事に対する手続きも大変だったが、死んだ後にもそれは続く。

肉体は滅びても、魂はまだその辺を彷徨っているからなのか?事務手続きも彷徨い続けている。
人の魂が50日であの世に行けるように、残った者もその間に残ったことをやらなければならない。
やるべきことをきっちりやっておけば、死んだ者も、残された者も、共に立ち行くことになるのだ

赤ん坊を生んだ姪が、実家に帰ってきた。
生れたての赤ん坊と、その上のお姉ちゃん、いとこにあたる女の子もいて、実家は大騒ぎ!
まさに保育園状態だ。

「生きる」ということは、その人数の分だけ楽しいことも、面倒くさいことも、手間も、時間も、もろもろかかる。
そうやって、多くの人の手を患わせながら、人間は生き続けることが出来るのだ。

それでも、人間は生きていく。それが、人としての使命なのだろう。
そして大人になり、今度は自分が人のためになる働きを成していく。

自分が朽ちたら、今度は自分が与えたものを受け継いでくれた人が、また新たな命のために働く。
それが、生きていく、生き続けることなのだろう

知人達に、「この度は、お父様のこと…」と、沈痛な面持ちで声をかけていただく。
相手の立場を思えば、そういう雰囲気になるのが普通なのだが、我が家に限っては、まったく悲壮感などない。

なぜなら、長年の闘病生活を支えてきた、出来ることは200%やりきった!という思いがあるからだ。
ぶっちゃけて言えば、もうお腹いっぱい!!なのだ。

なので、これまで使っていた「気力」や「体力」、「お金」についても、それらから解放されたのだから、むしろめでたいと言える。
「不謹慎な!」と、お叱りを受けそうだが、それは、本当に悲惨な介護をしたことのない人の言い分だと思う。

何事もやってみなっせ!そうすれば、人の気持ちが分かるというものだ

忌引き休暇をもらった1週間だったが、やること満載で、ゆったりする暇もなく週末を迎えることになった。

今日も被服系類の整理をしていたが、それと同時に母の分も整理することになり、部屋の中はグチャグチャ。
そして、ゴミの山。
明日、地域のリサイクル収集があるため、それに合わせてムリクリやらざるを得なかった。

物のない時代に育った両親にしてみれば、おいそれと物を捨てるのには抵抗があり、そのせいもあって、今や使えないものが山のようにたまっていたのだ。
「リサイクルされるから」という言葉を免罪符に、使えないものをエイヤッ!と処分することになった。

それらが終わった頃には、すでに陽も傾いていた。
まるで、全速力した後のような脱力感だ

遺品の整理をしていると、出るわ、出るわ~。
お宝ならいいのだが、ほとんどがゴミに出すしかないものばかり。

闘病中の書類などは、シュレッターしてもしても尽きないほど出てくる。
都度整理していればよかったが、ついつい後回しになってしまっていた書類の山。

人が生きている間に手にした「物品」の数はどれほどのものだろう。
数えきれないたくさんの物や、係わってくれた人達…。

生きるということは、自分一人じゃ何も出来ない、周りのお世話になって生かされていることを思わされた

先日生まれた赤子が、今宵我が家へやってきた。
生れたばかりの赤ん坊。ポワンポワンとしていて、見ているだけでも癒される。

だが、この存在、まさに「これから生きるぞ~~!!」というエネルギーを発しまくっている。
お腹が空けば泣き、オムツが濡れたら泣き、不快だと泣き、己の存在を周囲に知らしめ、居心地の良い住空間を作り上げようとしている。

無くなった命がある一方で、生命力の塊が現れる。
まさに、命の働きは、永遠に生き続けていくのだろう

人が亡くなると、その後の手続きがたくさんある。
役所に届けることに始まり、保険証の返還や、諸々の精算、お世話になった方々への挨拶回りに遺品の整理等々…。
故人のために、残った人間がやらねばならない。

出来た人なら、残された人に最小限の負担で済むように、あれこれ生前に準備しているものなのだろう。
それが、まさに終活なのだ。

病気であったり、すでにその能力のなくなった人には酷なことかもしれないが、人間元気で生きているうちだけが人生ではない。
身体の自由が利かなくなった時、亡くなった後のことまで考えて、己の始末をすることは、とても大切なことなのだ、と気付かされた

亡骸を見送る葬儀は、故人を偲ぶこともあるが、残された者が故人に対するこれまでの出来事を振り返り、気持ちの整理をつけるための儀式であるとも言える。

転校や転勤などの人との別れもそうだが、去る者も辛いが、残される者は、そこに空いた穴を埋めることに心を砕く。
親しい人であればあるほど、その穴を埋めるのは容易ではない。

そんな時、どれだけその人と親しく、楽しい時間を過ごしていたか、その人の存在がどれだけ自分の支えになっていたかを思い返すことが出来る。

どんな時にも出会いと別れは付き物だ。
辛い別れであればあるほど、それだけシアワセな時間を過ごした証と言える。
見方を変えれば、別れもまたありがたい事柄だと思えるだろう

父が4月下旬に退院してからは、通院しながら自宅療養していた。
既に、長年使われてきた臓器は疲弊し、その役目を終えるのは時間の問題だった。

その間、家族で父の介護をしていたわけだが、父が勝手良く過ごすためには、やらなくてはならないことがたくさんある。
一人の人間が自分の力で、生きるうえに必要な動作が出来ないのだから、それを回りがケアーするのだ。

自分一人を日々生かすことだけでも大変なこともあるのに、プラス体の大きな老人のケアは正直こちらの体力も精神も疲弊して、こちらが先に死ぬのではないか?と思うほどだった。

それほど心身ともにクタクタになった頃逝ってくれた。
正直、肩の荷が降りたと思った

人の死に直面し、最期を看て、その行方を見届けることも、人としての役割のひとつだろう。
何十年という年月を生き抜いた人間のフィナーレを飾ることは、その人に対しての畏敬の念だと思う。

残された者はその対応におおわらわだが、そんな姿を、亡き人の魂は見届けているはずだろう。
己が生きた最期を、近親者がどう対処してくれるのか?
形はなくても、魂は生き通しであることを思うと、やはりいい加減なことは出来ないだろう。

自分が最期を迎え、肉体を離れた時、周囲がどういう対応をするのか?自分はどうしてほしいのか?
そう考えれば、自ずとやらねばならぬことは見えてくるのだろう

おととい、姪に二人目の子供が生れた。新しい命の誕生だ。
この子の人生は始まったばかり。
これからどんな日々が巡っていくのか、その成長が楽しみだ。

今日、父が亡くなった。
以前から闘病生活を送っていたが、最期は苦しむことなく、安らかに旅立つことが出来た。

新たな命の誕生と、去りゆく命。
どちらも、それぞれの役目を以て生まれ、生きぬき、去っていく。
命のバトンタッチを見せてもらった気がした

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