前世|今世|未来へ

今感じていること、成していることが未来を作っています。
今は、過去、前世から継がれたことでもあると感じています。
前世、今世、未来に向けて、日々感じたこと、そこから起きている事柄を綴っています。

カテゴリ:今世 > 心の在り方とお役目

日々時間に追われる生活をし、仕事でストレスに晒されていると、たまには夜の宴でどんちゃん騒ぎをしたいという気持ちは良く分かる。

親しい仲間と酒を酌み交わし、言いたいことを話し、少しばかりハメを外す。
それでスッキリして、また明日から仕事に勤しめる、というものだ。

だが、これはコロナ禍以前までのことだ。
今は夜の宴がコロナ感染の大きな要因になっている現実を思うと、そうそう行けなくもなった。

ストレス発散のために行きつけでいっぱいやる、という行為はただ発散するだけであり、そこからの進展はない。少しばかりストレスが軽減されただけだ。

自粛生活により家にいる時間が増え、否が応でも家族と向き合うことになった。
人間の根源的生活は、まずは家族だ。そこを見つめ、絆を深めていくことが、家族と自身の進化に繋がっていく。

昨今は忙しさを理由に家族と過ごす時間をおざなりにした結果、絆は薄らいでいたのではないだろうか。
夫婦は互いを直視せず、子供にも感心を示さず、子供も親には期待せず、それぞれが違う目線で生きる、それが普通になりつつあった。

それがコロナ禍のおかげで、家族の在り方を考えるきっかけをもらえた。
更には、自身で蓋をしていた感情を改めて見つめ直す時間にもなった。

現代人に欠けているものは、自身の内声に耳を傾けることだ。

これまでの生活にはもう戻れない現実を受け止め、これからの道を模索すべく、内なる声に耳(心)を向けることが大切だ。

昨今は個人の意思を尊重、人権を侵害しない、という観点から、職場でも学校でも無理強いをしない風潮にある。

日本人は昔から団体で同じ方向に進んでいく習性が強いせいか、周りの空気を読み、場に馴染むことに長けているように見えるが、本心を隠して同調しているだけだから、ストレスも溜まりやすい。

団体行動から零れた、もしくは自らドロップアウトした人達は、自らの才能を如何なく発揮するか、引きこもるか?大まかに2極に分かれているように見える。

昔と違い寿命も100年近いことから、その間には挫折や災害に遭う機会も増えている。
人間だから思いがけない事柄に出遭えば、身も心も壊れてしまう時もある。

そういう時はそれまでとは違う環境に身を置き、快復を待つことも必要だ。

だが、長い年月引きこもっている人たちは、そこを安住の地としてしまい、進化を止めてしまったかのようだ。

方や自分に厳しくストイックに役目を全うすべく精進する人達は、そのストイックさが自身を破壊してしまうこともある。

人にはそれぞれ違う才能と役目があるのだから、それを知り、精進しつつそれらを発揮出来れば良いのだが、両者は脇目も振らず逆方向に突き進んでいるように感じる。
そこに脇道はなく、ただ真っすぐなのだ。

枝分かれした道があれば、寄り道したり、遠回りしてみたりしながら、それまで気付けなかったこと、思いがけない発見に出遭うこともある。

人生の王道とは別の脇道で違う世界を体感する機会がないと、長い人生を進むことは険し過ぎるだろう。

一つのことを成し遂げることは偉大なことではあるが、時には他の窓を開けて新鮮な空気を取り入れることも大切だ。

方や一つの場所に留まり、自分の殻に閉じこもって新鮮な空気を取り入れない限り、花は咲かない。

そこに気付ければ、人生もっとラクになるのだが…。

「年収400万円で幸せな人」と「年収1000万円で不幸な人」の決定的な差を読んで同感。

収入がなければ日常生活を営むことは難しくなるが、有り過ぎても幸せを感じられない人が世の中にはたくさんいるという話を良く耳にする。

収入が低くても家族が仲良く、どんな事柄にも喜びの種を見つけるのが上手で、周囲に困った人がいれば寄り添える生き方が出来るのもまた、人の痛みが分かる人であろう。

人並み以上の収入があれば何でも思い通りになるから、人の痛みにも鈍くなるし、共感力も衰える。すると、自然と周囲から人もいなくなる。一見恵まれているようだが、心には隙間風が吹いている。

お金はあって困ることはないが、その使い方が生き金か死に金かで、その先にある幸福感が大きく変わってくる。

困った人に分け与えよということではなく、それらに共感しつつ一緒に助かる道を模索するために、潤沢な財産を有効に使い、彼らが自立できる道を模索していくことが大切なのだ。

すると、困った人が助かり喜びの心が生まれる。それを見て寄り添ってきた自分の心にも温かいものが育まれる。

運良く?贅沢な環境に恵まれた者は、そうでない人達が幸せになれることに喜びを見出せる生き方が出来るかどうかで、己の幸せも大きく変わってくる。それが、幸せの法則だ。

〈独占告白〉「このハゲ~!」騒動から3年・豊田真由子「意識のあるときは、死ぬことばかり考えていた」を読んだ。

秘書が録音していた「このハゲ~~!」の暴言には驚かされた。
政治家が秘書を罵倒しているのだから、思わず耳を疑った。

どういう精神状態であればこうなるのだろうか?政治家となり、偉くなると人間はおかしくなるのだろうか?とも思ったものだ。

この騒動で豊田氏は政治の世界からも世間からも姿を消した。
家族もさぞやいたたまれなかったことだろう。

あれから3年が経ち、ワイドショーのコメンテーターでテレビに出ている姿を見て、ずいぶん雰囲気が変わり柔和な顔つきになったなと思った。
もともと賢い人だから、発言にもきちんとした裏取りがあり説得力があった。

この3年どれほど自分を呪い責めてきたのだろうとも感じた。
人前に出ることも熟慮に熟慮を重ねてのことだったのだろう。

豊田氏はもともとは悪い人ではないのだろう。
こんな大騒動を引き起こしても、全ての人が去ることもなく、彼女の未来を案じ助けてくれるのだから、その人となりやこれまで築いてきたことをちゃんと見てくれていたのだろう。

人は、人生に絶望し二度と立ち上がれないような境遇に陥っても、強い意志と周りの助けによって、時間はかかっても再生することは出来る。

豊田氏が絶望の淵から生還したことには大きな意味があるし、似た境遇にいる人たちにとっても希望の光となるだろう。

彼女の天分をこれから十二分に生かし、自身も周囲も幸せへ導いてあげて欲しい。

今日は天皇陛下の即位を国内外に宣明する「即位礼正殿の儀」が執り行われ、朝からテレビ中継を見ていた。
平成が終わり令和となり、浩宮様が新天皇陛下になられ、雅子様が皇后様となられた。

生まれた時から天皇となるべく帝王学を学び、人知れず人としての研鑽を積み重ねられたであろう浩宮様。民間から皇室に嫁がれ、それまでの生活とは180度違うなかでご苦労を重ねられた雅子様。
お二方が歩まれたこれまでの道のりは、私達の想像など及ばぬほど過酷な日々であられたと思う。

殊に雅子様は外務省に勤めるキャリアでありながら、それを捨て皇室に嫁ぐ運命を受け入れたものの、雅子様をバッシングする声は長年に亘った。それだけでも十分適応障害になる要因だ。
そこを辛抱に辛抱を重ね、浩宮様と共に1日1日を過ごして来られたのだろう、とも思った。

これからは浩宮様、雅子様の時代だ。お二人のキャリアと真心を如何なく発揮して欲しい。
きっと世界平和の一助になることは間違いないと、心から思えた1日だった。


佳子さま、姉・眞子さまの結婚問題よそにダンス公演で“美しすぎる腹筋”を解放!を読んだ。

佳子様は幼い頃よりフィギュアスケートを習い、物心付いてからはダンスの魅力にハマったのだろう。
皇室の方にしては今時の子っぽいが、その佇まいにはやはり品がある。

踊る姿をこの記事でしか見ていないが、ポージングも決まっているし、ダンスが自然に踊れているように見受けられる。恐らく相当練習し、技術を磨いているのだろうと推察する。

これが普通の家庭の子供なら、何も言われることはないのだが、皇室一家の一員となると、話はそう簡単でないところが気の毒だな、と思う。

佳子様は大学を卒業後に仕事に就かず、マスコミからも「普段は何をしているのか」と質問される始末。
確かに世の中の常識から見れば、大学を卒業したなら働くのが人としての務めだろう。

だが、佳子様が今最も興味関心があり、夢中になれるのがダンスなのだろう。
出来る範囲の公務は果たすが、それ以外の時間はダンスに当てたいのではないだろうか。
ならばいっそのこと、ダンスに特化した仕事に就くか、それを公務に生かすという手がある。

私もダンスをやっていたので、その素晴らしさは充分分かるし、必要性も感じている。
小学生の授業にダンスが取り入れられたことも納得だ。

子供の成長にとってダンスが必要不可欠なのだから、その分野に特化した仕事や役割が巡って来れば、まさに本領発揮ではないだろうか。

これまでの皇室の在り方を鑑みて、あれやこれや外野はうるさく言うが、皇室も進化し続けなければならない。伝統も大切だが、新しい道を切り拓くことが、これからの日本には必要なのだ。

佳子様には、その力があるのかもしれない…。というか、そうであって欲しいと願う。

ホリエモン、台風の中帰宅の杉浦太陽に非難の声で「ほんと性格悪い」を読んだ。

この記事を要約すると、人の幸せを妬み、SNS等でそれを批判する奴は性悪だ!ということだ。
確かに、その通りだと思う。

災害の最中にあり、不自由な思いをしている人達の呟きというよりは、普段から他者の幸せをやっかむ可哀そうな人達の仕業だろう。

特に芸能人や著名人はその槍玉に挙げられがちだし、それも混みで有名税ということも言われるが、果たしてそうであろうか?

どんなに有名人であろうと、その人達にしか分からない不自由や難儀はあるものだ。
それでも、常に笑顔を発信し続けることは、並大抵のことではない。
そんな裏の苦悩も想像出来ず、表面の笑顔だけを見て妬む心しか生まれないというのは、人としてどうなんだろうか…。

「あの人は幸せなのに、私は不幸」と思うこと自体、すでに幸せを自ら手放しているようなものだ。
幸せな笑顔を浮かべる人は、それ相応の努力と精進をし続けているのだ。
自らの心がハッピーでなければ、一生その心が救われることはない。

他人の幸せを妬む前に、自らの行い、心の在り方を見つめなおすことが最も大切なことだし、それが幸せを掴む秘策だ。

障がい者の人を見て「かわいそう」と言う人がいるが、私はそうは思わないし、そう思うことは失礼なことだと思う。

生まれつき身体に障がいがある人にしてみれば、生まれた時からそれがスタンダードなのだから、健常者と言われる人の感覚が分かるわけもなく、自分には自分に合った生き方がある、という思いのほうが強いのではないかと感じる。

そもそも障がい者という言葉も私は好きではない。もともとは障害者と書かれていた。
これこそ害であることを示す言葉だ。それはおかしいということで、ひらがな表記に変わったものの、それはやはり健常者の目線で付けられた言葉なのだ。

不自由な身体であったとしても、その中で出来る精一杯を生きている人は多くいる。
翻って、健常者と言われる恵まれた身体を持ちながら、自らの命を絶ったり、自暴自棄な生き方をする者もいる。

健常者であろうが、障がい者であろうが、それぞれが抱える苦難は同じなのだ。
それとどう向き合い、壁を乗り越えていくのか?それは、人が生まれてきた意味なのだから、ひたすら愚直に精進し続けるしかないのだ。

生きる意味が分からなければ、人は人では無くなる。
自分が生きる意味をしっかり腹に据え、与えられた環境で、自分のやるべきことに突き進む!それが、自分にとっての使命なのだから。

大河ドラマ「西郷どん」もいよいよクライマックスだ。
幕末から明治維新に至る過程は、それまで武士であった者達にとっては、青天の霹靂以上の衝撃だったことだろう。

刀が武士の全てであった時代が徳川幕府以前も入れたら、数百年続いていたのに、明治維新という時代の変化と共に、あっさりそれを捨ててしまわねばならないのだ。
武士に限らず、町民も農民等も、誰もが新しい時代に恐れと不安を抱いていたことだろう。

現代は先の大戦から半世紀ほどで、瞬く間に文明が進化しすぎた。
私が就職した頃にはまだ英文タイプだったが、あれよあれよという間に、ワープロ→ポケベル→パソコン→PHS→ガラケー→スマホが台頭してきた。
これらに関しては、ほんの数十年間の話だ。
私が新卒で就職したての頃、FAXが無事に届いたかどうか、わざわざ電話をして確認していた時代がウソのようだ。

幕末の怒涛ほどではないにしても、現代もそれなりに大きな時代の流れ、うねりがあり、それに連いていけない者は多くいる。

全てを網羅することは出来ないにしても、時代は生き物であり、変わり続けていくものであることを、忘れてはならない。
そのうえで、自分が出来ることに精進し、日々の務めを全うすることが大切なのだ。


社会人生活も長くなると、毎日が同じことの繰り返しになりがちだ。
とはいえ、同じ毎日というのはないわけで、ちょっとずつ色んな変化は起きているのだが、なかなかそれに気付けないというのも、また現実だ。

1日のうちの比重が大きい事柄といえば、私の場合は週5日会社で働くことだろう。
その中では些細ではあるが、微妙な人間関係やままならぬ業務だったり…と、それなりにストレスを感じながら生きている。

それでも、キー!と叫ぶほどのストレスではないと思ってはいるが、仕事と離れたことをした時に、いつも思うのが「ああ、私ストレス感じてたんだな~」ということだ。

それは、習い事の稽古をしている時だったり、料理をしている時だったり、お風呂の湯船に浸かっている時だったり…と、仕事とは全く無関係のことをしていると、それまで心に抱えていた些細なストレスの積み重ねが少しずつ解れていくような気がする。

人にはそれぞれ発散の仕方があるだろうが、案外それは身近にあることでも出来るのかもしれない。
そして、発散し心をリセットすることで、また自分の役目に取り組めるようになるのだろう。


安室奈美恵さんがこの16日で引退した。
多くのファンにとっては寂しい限りだが、彼女の生き方は凄過ぎるし、己に課せられた役目を全うしたパーフェクトな姿だな、と思わされる。

安室ちゃんがデビューした時、華奢でキュートな子が全身で歌い踊る姿があまりにも鮮烈だっため、今でもよく憶えている。
音楽番組に出ていた頃、テレビの公開放送があり、そこで生の安室ちゃんを見た時にも、衝撃的な感銘を受けたものだ。

10代でプロの世界で走りだし、25年間クオリティを磨きあげ走り続ける姿は、誰が見ても尊敬するし、勇気付けられる。

こんなにスゴイ!!安室ちゃんを見て元気はもらえても、自分にはそんな力はないな~とも思うのだが、そもそも凡人である私には到底無理な事柄だ。

だが、私には私にしか出来ない事もある。規模は小さく些細な事柄かもしれないが、それも必要な役目であり、役割なのだ。

安室ちゃんからもらった多くの元気と勇気と感動に報いるには、自分の手元にある役目を全うすることだ。それが安室ちゃんへ近づく一歩となるのだから。

長い間同じ家に住んでいると、どんどん荷物が増えてくる。

これは昔使っていたものだから、これは〇〇さんからいただいたものだから、ちょっと古いけどまだ使えるから、昔着れたお気に入りの服、また着ることもあるから、取っておこう!と、いつまで経っても物が捨てられず、気付けば押し入れもパッツンパッツン!

で、押し入れに仕舞ったもののほぼ9割ほどは使うことなく年月だけが過ぎていくのだ。
ということで、思い切ってもう何年も使っていないものを処分することにした。

新古品でも年月が経つとしみが付いている。もったいないから取っておいたものが、全て使い物にならなくなっていた。
見た目ちょっと古いくらいだが、人目に付くものはやはり二度と使わないのだ。

何かを手にするたびに当時の思い出が蘇ってきて、なかなか断捨離は進まない。
時間との戦いでもあるので、心を鬼にして不要品をガンガン袋に詰めていく。

この連休を活用し断捨離をするので、まだまだ終わってはいないが、これをすることで、なぜか心の整理も出来ているような気もする。

物質の断捨離=心の断捨離にも繋がっているようだ。

嫌なことがあるとすぐ逃げて出社しなくなった上司や、上から物を言いたがる人、何でも自分は出来るとアピールしたがる人らに共通するのは、「自意識過剰」だ。

人間には承認欲求があり、自分がしたことで周りが喜んでくれたり、褒めてくれれば、誰だって悪い気はしない。それを励みに、また次も頑張ろう!と力も湧いてくる。

誰かを喜ばせたい、褒めてもらいたい、という思いは向上心の現われで悪いことではないが、それが行き過ぎると黄色信号が点滅し、最終目標が「褒めてもらいたい」になると、完全に赤信号と化してしまう。

誰にでも今世でなさねばならぬ課題があるわけで、それに精進するうえで、周囲が喜びを感じてくれれば、自分の取り組む姿勢は間違いではなかった、という確認になるだけで、褒めてもらうために精進するのは筋が違う。

常に誰かに見ていて欲しい、褒めてほしい、というのが自意識過剰なのだ。
そこには、自分だけが「かわいい」という意識しか働いていない、そのことに気付けないからやっかいなのだ。

自意識過剰の末路は…孤独だ。
自分のことにしか目が行っていないと、周りには誰もいなくなるものだ。

逆に、周りを見て、心を配っていれば、自然と人は集まってくる。
己を孤独に陥れているのは、結局自身であることに気付けないうちは、どこどこまでも負の連鎖は続くし、喜んでも褒めてももらえないものだ。

TOKIOの山口君の事件は、予想以上に世の中に衝撃を与え、同メンバーらの厳しい姿勢も窺える。

同じメンバーだから庇うのではなく、一人の大人としての自らの行動がどれほどの打撃を与えているかを、身を以て感じて欲しいという、切なる叫び、怒り、悲しみを隠さず現しているように感じる。
当人はもとより、やはりTOKIOのメンバーにとってどれほどショックだっただろうと推察する。

芸能人は表向きはどんな時も笑顔で、心とは裏腹に対応せねばならぬ時が多いだろう。
社会人たるもの、どんな職業に就いていようが、その場面は変わらないが、メディアに大きく取り上げられるという意味では、やはり顔が売れている人間にとってそれは大きなストレスでありプレッシャーでもあろう。

だが、そもそも人間には二面性、いや多面性がある。
それを生きている過程でどう昇華するか、退化するかによって人生は大きく変わる。

自分を良き道に導いてくれる人と出会えていれば、こんな愚かなことをしでかすような人生を送ることはなかっただろう。かといって、それは周囲のせいでもない。

どんな人と付き合うかは自分が決めているのだから、自分を成長させてくれる人を選ばなかった自分の責任でもある。

良い面、悪い面、それらと向き合い、上手に進化させていくことが足りなかったのだろう。
表沙汰になるかならないかの差はあれ、人間には誰しもブラックな一面はあるものだ。

財務省の福田事務次官が今宵辞任を発表した。
理由は「セクハラ疑惑」だそうだが、財務省の高級官僚であり、最高峰の地位を手にしながら、なぜこんなアホみたいな事柄で辞任することになったのだろう。

疑惑のセクハラは今回だけのものではないらしい。
証拠の音源がある通り、恐らく以前からセクハラは普通のことであり、それに目を付けたマスコミにしっかり撮られ、録られていた、ということだろう。
今回一回こっきりのことで、最高官僚が辞任はしない。まだまだ余罪があったのだろう。

ここのところ、官僚や行政のトップがセクハラやパワハラ等々で辞任するケースが続いている。
どんな社会にもドロドロした思惑や企みがあるだろうが、こうやって血祭に上げられる結果を招いているのは、過去の自分の行いの賜物だ。

偉くなればなるほど謙虚に足元を見つめながら生きていくべきところ、天にも舞い上がらんほど有頂天になり、権力を我が物と勘違いすると、今回のようなことに繋がるのだ。

人間、どんなに偉くなろうとも、足元だけは見失わないように生きていきたいものだ。

それにしても…多くの官僚を蹴散らし、押しのけのし上がったのに、その役目を果たすことなく散ってしまうとは…「身から出た錆び」とはいえ、何とももったいないことだ。

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