2014年01月

2014年01月31日

人と対面する時、顔を見ると、相手の気分や雰囲気が何となく分かる。
顔には、その人の性格や気質、生き様が現れていると思う。

人気のある人というのは、愛嬌が良い。人に媚びるのではない、心からの笑顔が満面している。
表情から、話しやすそうだな…とか、一緒にいて楽しいだろうな…とか、見ただけでそう感じてしまう。

人から避けられる人は、険しく苦虫を噛んだような顔で、いつも何かに怒っているように見えるし、話しかけたらイヤな言葉を返されそう…と想像してしまう。

口(言葉)には出さないのに、その人となりを感じる。
「顔は口ほどに物を言う」=「心は顔に出る」ということだろう

※諺では「目は口ほどに物を言う」ですが、今日のタイトルにちなみ、上記表現としています。

enji_152 at 23:05|PermalinkComments(0)今世 | 課題

2014年01月30日

連鎖

ちょっとしたことで心がイラついた時、ほどなくして忘れられればいいのだが、時々、その怒りが治まらず、グチグチと怒りの原因を思い返してウツウツしてしまう。

そんな感情を持ったままでいると、なぜだか追い打ちをかけるように、次のイラッとがやってくる。
ここでも気持ちを切り替えることが出来ないと、次々とイライラの連鎖が続く。

最終的に、それに対して人や物に当たってしまい、揚句、心身が痛い思いをする(自業自得)。
その痛みを通して、自分のアホさを痛感する。

人生、修行の連続だ

enji_152 at 21:39|PermalinkComments(0)今世 | 課題

2014年01月29日

覚悟

楽しく、充実した瞬間を味わうために、多くの困難と努力を積み重ねる。
だが、最終的に結果が良いものになることが分かっていれば、苦労のしがいもあるというもの。
今の自分にはそれがチャレンジであり、仲間とそれを共にしていれば、絆もより強くなる。

そして、いよいよ至福の時到来!と思いきや、そんな時間はあっという間に過ぎていく。
良い結果を持つことが出来、苦労を共にした仲間と美酒に酔いしれる。
こんなひと時を味わいたいから、また次にチャレンジしてしまうのかもしれない。

次のチャレンジが始まって気付くことは、前回のメンバーが常に一緒とは限らない…ということだ。
時の流れと共に、メンバーは否が応でも変わっていく。それぞれに家庭があり、都合がある。頭では分かっていても、仲間が離れていくことはやはり辛い。

人生とはそんなものだと思う。常に同じ瞬間は巡ってこない。一瞬一瞬が、二度とない今なのだ。
今一緒にいる人と一生を共に出来るわけではない。
そう思うと、今あるべき状態、今側にいる人を大事に思える。

私たちは、どんなふうに流れていくか分からない波の中に生きている。
どう流れが変わってもうろたえない覚悟を常に持っていたい


enji_152 at 21:00|PermalinkComments(0)今世 | 気付き

2014年01月28日

縁1

先日、20代の頃に習っていた和太鼓の仲間の一人と再会した。
何年ぶりだろう? 記憶を辿って紐解くと、目の前にいる彼と当時の彼の顔がマッチした。

「エンジさん、変わりませんねぇ~」としみじみ言われてしまい、私も会わなかった年月の分だけ大人になった彼を目の前にして、「お互い、若い頃を知ってるから、変わらないように見えるんだよ」と笑った。

もう、彼とは会うこともないだろう、と思っていたが、思わぬ再会となった。
縁のある人とは、長い時を経てもまた会えるようになっているのかもしれない。

彼に限らず、もう二度と会うこともないと思っていた人に会えるのは、これまで生き、培ってきたことから再び巡ってきたことだと思う。再会することが、今の私に必要なことなのだろう。必要とあらば、今後どんな展開が待っているのか?楽しみだ!

縁とは、何ともフシギなものだ

enji_152 at 21:15|PermalinkComments(0)今世 | 

2014年01月27日

居心地の良い場所(終)

10回に亘り、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」にまつわる事柄を書いてきた。
これは、かつての私が「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」であったこと、そして今は逆の立場となり、過去の自分と対峙せねばならない現実と向き合っていることから、自分が通ってきた道であり、それを克服できた経緯を記そうと思ったことに始まる。

私には、私のおかしいところを、「おかしい」と教えてくれる友人がいた。
それまで、親の価値観の中だけで生きていた私は、知らず知らず「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」になっていた。他人から面と向かって「変だ!」と言われたおかげで、私は自分を変えるきっかけをもらえた。

一朝一夕に「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」を克服出来たわけではないが、日々巡ってくる事柄と向き合い、周りの助けのおかげで、無事に「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」を脱却できたようだ。
その時の私は、気持ちが丸裸だった。素っ裸の心のままでも、恥ずかしくない自分になっていた。

ここに書いている全てが、誰もに当てはまるわけではないが、何かのヒントになればと思う

2014年01月26日

居心地の良い場所10

人生において、人にあげられるものはあげて、自分は必要なものだけを身に付けていればよいと思う(心・気持ちのこと)。

人の物が欲しい、人より先に話したい、人より良い思いをしたい、誰よりも私だけを見て欲しい!と思えば思うほど、我欲のパワーに圧倒されて、人は離れていく。

私が!私が!という我を捨ててみると、思った以上に気持ちが軽くなる。必死で抱えていたもの(価値観や思考・気持ち)は、実は、どうってことないものだったりする。捨てるには勇気がいるが、一瞬の勇気で物事は180度変わる。

自分の思いより、人の思いを優先する(出来る範囲で)。すると、自分が困った時には、誰かがタイミングよく現れて助けてくれる。世の中とはそんなふうにうまく出来ている。

「本物の居心地の良い場所」は、逃げ場のない断崖絶壁(自立した精神で、今あるべきことから逃げずに立ち向かう場所)でありながら、それを克服すると、心が、花咲き乱れるオアシスになる場所なのかもしれない

2014年01月25日

居心地の良い場所9

「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」は、人や物に感謝する気持ちが希薄な傾向にある。
今あるべき状態が「当たり前」だと思いがちで、元気に生きていること、食べるものや、住む家、着る物にも困っていないこと等々、たくさんの恵まれたことに気付けず、足りないことばかりを探しては不満を募らせている。

不満や不安な心が起きてきたら、その度に理不尽だと思っても「ありがとう」という言葉を心で(口に出してもOK)唱えてみる。
だまされたと思ってやってほしいのだが、これをずっと続けていると、自然と心が穏やかになり、本当に「ありがたいな~」と、心から思えるようになる(そう思えるまでかなりの辛抱と、時間はかかるけど)。

口にすること、思うことには魂が宿る(言霊)。
ポジティブなことを口にする人には良いことが起きてくる。心配や不安や不満ばかりを口にする人には、不都合なことばかりが起きてくる。フシギなことだが、それが現実だ。

辛く苦しい気持ちにあえて反抗するように、魔法の言葉「ありがとう」をぜひ口に(心に)して欲しい

2014年01月24日

居心地の良い場所8

人にはそれぞれ、育った環境による価値観がある。どれが良くて、どれが悪いといったものではない。
千差万別の価値観があるから、社会は成り立っているのだと思う。

だが、往々にして自分の価値観を押し付けがちになるのが、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」だ。
自分はこういう境遇で生きてきたのだから、この価値観が正しい、これじゃなきゃ私は無理!と頭から人の価値観を否定しがちだ。

他人の価値観を拒否しようが、抵抗しようが、それは個人の自由だが、だからと言って自分の価値観を押し付けてくるのは違うでしょ…と思う。

自分以外の価値観を受け入れられないということは、かまって欲しいくせに、自分から他人を拒絶しているのと同じことだ

2014年01月23日

「かぐや姫の物語」を観て 後編

「かぐや姫の物語」で、もうひとつ感じたことは、人間の欲望だ。

竹やぶの中で、偶然「かぐや姫」を授かり、育てることになった翁夫婦。最初は姫のかわいらしさに目を細めていたが、竹やぶで金の財宝や高価な着物を見つけたことから、野山を駆け回る幼い姫を見て、翁は都に立派な屋敷を建て、高貴な姫になるための教育を施す。

それにより、かぐや姫は美しく、聡明な女性に成長する。その噂を聞きつけた都の男達が姫を我が物にしようと押し掛け、高価な貢物を献上するが、姫が首を縦に振ることはなかった。

翁の姫を高貴な方に嫁がせたいという欲望と、この上ない美しさの姫を手に入れたいとする男達の欲望が渦巻くことで、姫はその現実に耐えられなくなり、月に帰ることになるのだ。
かぐや姫自身は、この世で人生を謳歌したいだけなのに、その思いとは裏腹に、周囲の欲望に翻弄されてしまう。

我欲は、抱けば抱くほど手に入らない、あるいは一旦は手に入れたとしても、いずれは無くなってしまうものなのかもしれない

余談だが、かぐや姫の侍女をしていたパタリロにそっくりなキャラに釘付けだった私

2014年01月22日

「かぐや姫の物語」を観て 前編

「かぐや姫の物語」を観た。
淡いタッチの日本の風景が全編に散りばめられ、原作である「竹取物語」の世界にふっと入っていくことが出来た。

この映画で感じたことは、月からかぐや姫はやってくるのだが、これは、人間が生まれる(黄泉の世界から魂を持って人間として生まれるとも解釈出来る)ところから、生まれる場所を自ら選び、両親に育ててもらい、育った環境の中で、己の心に正直に、人生を全うすることの大切さだ。

かぐや姫は、月から来て地球の育ての親に育まれ、年ごろになると都に出て、多くの男性に見初められる。
だが、姫自身は、そんな生活はちっとも望んでいなく、生まれ育った、野山で駆け回っていた頃に戻りたいと思う。だが、その願いは叶わず、自分の居場所を失くした姫は、月に帰りたいと懇願する。

やがて、月から迎えが来ることが決まると、育ての両親や、幼い頃を共に過ごした幼馴染との別れが辛くなるのだ。
かぐや姫が地球で生き、月に帰る(黄泉の世界に戻る)ことで、地球に残された、姫と関わった多くの人達の人生もまた変えることになる。

人は、生まれて生きている間、そして死んでからも、出会った多くの人達に、たくさんの思い出を残していく。
そして、その思い出は、自身がどう生きたか、それがそのまま心に残るものだ…と思わされた

2014年01月21日

居心地の良い場所7

人は、一人では生きていけないわけで、周囲の方達のお世話になっているのが現状だ。
「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」も、周囲に支えられて生きているのだが、その支えに寄りかかり過ぎる傾向がある。

人との付き合いは、「腹八分」、いや「腹六分」くらいが程よい。どんなに心を許せる相手であっても、ある程度の距離を置いて付き合うことが、互いの関係を良好に長続き出来る秘訣だ。

大人になればなるほど、人には話せないこと、話したくないこと、話せる時節があること等々、そう簡単にはいかないことが起きてくる。あまりにも相手に近づきすぎると、知らず知らず相手の生き方や感情に土足で踏み込むことになってしまう。

より良い関係でありたいならば、相手をかまい過ぎたり、頼り過ぎないことだ。
精神は、常に一人立ちしていたいものだ

2014年01月20日

居心地の良い場所6

「どうせ、私の気持ちなんて分からないわよ!」(逆ギレ気味に)と、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」は言う。
「はい?」と、私は首をかしげる。

当人じゃあるまいし、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」の感情なんて、分かるわけがない。というか、他人に「自分の感情を理解し、かまってほしい」というその性根って?

人間、誰だって人には言えない辛いことや、苦労している事はたくさんある。家族や親族、職場や学校、友人関係、その他もろもろ、誰だって多かれ少なかれ、大事を抱えているものだ。
それを、「なぜ他人は私がこんなに大変な思いをしているのに分かってくれないの?分かったうえで、慰めてくれないの?」と言うのは、自分のことには関心を持って欲しいが、他人のことはどうでも良いと言っているのと同じことだ。

誰もが己の苦悩と葛藤しながら、決してそれを人には見せずに、毎日を笑顔で過ごそうと努力している。どんな状況化であれ、他人に迷惑をかけまいという心がけで、己の力で居心地の良い場所を切り拓こうとしているのだ



2014年01月19日

居心地の良い場所5

「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」は、やたらと人の目を気にする傾向にある。
人が自分をどう思っているのか?悪口を言われていないか?と。

「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」が思うほど、他人は、人のことには興味も感心もない、というのが正解だ。他人の一挙手一投足が気になっているのは、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」だけ、と言っても過言ではない。

なぜなら、人間生きていくうえにおいて、大人になればなおさらのこと、自分の家族や親しい方たちとの生活を第一に考えているわけだから、他人のことなんてかまっていられない、というのが本音だ。
だから、「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」が自分はどう思われているのか?という疑念は、徒労に終わっている、というわけだ。

それに、自分の周りに多勢の人達(会社組織や学校のクラス等)がいたとしても、相対するのは、常に一対一の関係でしかない。
多勢を相手にしている(すべての人たちが自分をどう思っているのか?と疑念を抱く)、と思うと緊張するが、それは対個人間のことだ(目の前の人は私をどう思っているのか?)、と思えば少しはラクな気持ちで人と対することが出来るのではないだろうか。

「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」は自意識過剰なのだ。
冷たいようだが、他人は「かまってちゃん」や「かまいたこちゃん」のことを何とも思っていない、というのが現実である

2014年01月18日

懐かしい味

沖縄のアンテナショップである「わしたショップ」に行った。
西表島の黒砂糖を現地から運び、実食販売(大きな黒糖の塊を砕いて、試食させてくれる)していた。

毎年沖縄本島や離島に行く私にとって、沖縄の黒糖は大好きな味だ。
販売員のお姉さんから黒糖を少し分けてもらい味見した。
そうそう、この味!八重山の味だ!

実は、私の前世は沖縄の人だったらしい。
これが分かったのは、2011年に宮古島に行った時に、見えない世界のことが見える人にそう言われたことから判明した。前世での私の気質や趣向といったものが、現世もまんま残っていたから、身に覚えがあったと同時に、今世での自分の気質などに妙に合点がいくものがあった。

そんなわけで、懐かしい八重山の黒糖を口にして、来月行く予定の沖縄に早くも行きたくて仕方なくなった。
沖縄が呼んでいる…。
懐かしい味で、またしてもそう思ってしまった

enji_152 at 23:32|PermalinkComments(0)前世 | 記憶

2014年01月17日

時節を待つ

ピン!とひらめいたら、即行動! 私もその手のタイプだ。
が、物事には時節がある。

いくら良いことでも、それが時節に合っているかどうか?それによって、物事の動き方は大きく変わる。
無理に事を進めようとすると、どうしても破綻に向かってしまう。

どんなに努力してもうまくいかない時はどうにもならない。
そういう時は、時節が来るのを待つしかないのだが、ただ手をこまねいて待っているのではなく、今出来ることをしつつ待つ。
その時が来たら、よっしゃー!と、勢い良く進むためだ。

水面下での働きこそが、実は時節を招いているのかもしれない

enji_152 at 21:29|PermalinkComments(0)今世 | 気付き